ホーム » ブログ » 【神社新報記事】『平家物語』のつくる歴史――北条時政・義時・政子と「鎌倉殿の13人」――

【神社新報記事】『平家物語』のつくる歴史――北条時政・義時・政子と「鎌倉殿の13人」――

投稿日:2022年6月14日(火)


昨日の源義経公鎮霊祭は良い天気に恵まれましたが、今日からしばらくは梅雨らしい天気が続きそうですね。明け方などはひんやりする空気ですので、窓を開けて眠る際はご注意ください…権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年3月21日号掲載の記事「『平家物語』のつくる歴史―北条時政・義時・政子と「鎌倉殿の13人」をご紹介致します。

神社新報ロゴ

神社新報記事

【『平家物語』のつくる歴史~北条時政・義時・政子と「鎌倉殿の13人」~】

「大河ドラマやアニメなど、昨今、平安時代末期から鎌倉時代にかけてが注目されてゐるやうだ。各地でも神社を含めた縁の場所が注目されてゐる。今回、日本中世文学などが専門で『平家物語』『太平記』研究の第一人者である学習院大学名誉教授・兵藤裕己氏に「『平家物語』のつくる歴史」と題する御寄稿をいただいた。

<鎌倉殿の十三人>

ことしのNHKの大河ドラマは、「鎌倉殿の十三人」である。

初代鎌倉殿の頼朝が建久10年(1199)正月に急死し、嫡男の頼家(当時18歳)が二代鎌倉殿になる。だが4月には、有力武士の合議により、頼家が政務を執ることが「停止」された。『吾妻鏡』同年4月12日条によれば、今後、すべての政務は、北条殿(時政)や同四郎(義時)以下の「十三人」の「談合」でおとなふことが取り決められたといふ。

二代鎌倉殿頼家の権限が剝奪された理由として、『吾妻鏡』は、頼家のさまざまな傍若無人のふるまひを記してゐる。だが、「十三人」のなかでも初代鎌倉殿頼朝の信任が厚く、頼家の後ろ盾の一人だった梶原景時は同年中に失脚し、追討・殺害された。その三年後には、頼家の正室(一幡・公暁の生母)の父親である比企能員が、北条時政によって謀殺されてゐる。

一連の事件の背景に北条氏の暗躍があったことは確かだが、鎌倉時代後期に北条氏周辺で編纂された『吾妻鏡』は、もちろん事件の真相を語らない。二代鎌倉殿頼家から実権を奪ひ、その政務を代行した「十三人」といふのも、北条氏の専制体制がつくられてゆく過程で仕組まれた過渡的な体制だった。

<桓武平氏の北条氏>

ともかく、そのやうにして次第に幕府の実権を握ってゆく北条氏は、系図では桓武平氏とされる。たとへば、元弘3年(1333)の北条氏の滅亡を語る『太平記』は、第一巻の冒頭を、「神武天皇より九十六代の帝、後醍醐天皇の御宇に、武臣平高時と云ふ者あり」(岩波文庫)と語りだす。時政から九代目の北条高時を、家の名(苗字)ではなく、家系を示す氏の名で「平高時」とするのは、北条氏が桓武平氏とされてゐたからだが、しかしこの桓武平氏の北条系図はかなりあやしいのだ。

『太平記』とほぼ前後する時期(十四世紀後半)に編纂された『尊卑分脈』は、史料的価値のきはめて高い源・平・藤・橘以下の諸氏の系図集である。それによれば、北条氏は、平将門の乱の鎮定に功のあった平貞盛を祖とする桓武平氏維将流である。維将は、維衡(平清盛の先祖)の兄弟とされる人物であり、維将流の北条氏は、れっきとした桓武平氏といふことになる。『尊卑分脈』の関連部分を抜き出してみる(図参照)。

s-20220614094545-0001

この『尊卑分脈』以外にも、北条系図は主要なものだけで数種類あり、その代表的な一つの『続群書類従』所収の北条系図では、時政の祖父と父は、時方・時家とあり、『尊卑分脈』とは逆になってゐる。北条時政は父親が時方か時家かも不確かなのであり、しかも同時代の史料では、時方・時家はいづれも実在が確認できない。

そんな不確かな北条系図ではあるが、すべての系図に共通してゐるのは、時政の数代前の先祖が平直方とされることだ。そしてこの平直方こそ、北条氏の出自の謎をとくキー・パーソンなのである。

<頼義・直方と重ね>

源頼朝が鎌倉に幕府(将軍の軍府)を置いたのは、頼朝の六代前の先祖、源頼義が鎌倉を拠点としたことによる。前九年の役(永承6年(1051)~康平5年(1062))で、奥州の俘囚(朝廷に帰順した蝦夷)の安倍頼時・貞任の叛乱を鎮圧した頼義は、その九年に及ぶ戦役を通じて、東国武士との固い主従関係をつくりあげた。武家の棟梁源氏の実質的な初代といへる人物だが、その頼義は、相模の国鎌倉一帯に勢力を張った桓武平氏の平直方の娘婿となり、直方から鎌倉の館と領地を譲り受けた。

治承4年(1180)8月に伊豆で挙兵した頼朝は、先祖頼義の事績をなぞるやうにして鎌倉を本拠とし、かつて頼義が、京都の石清水八幡宮から鎌倉の由比ヶ浜に勧請した八幡社を、鎌倉を一望できる高台に移し、この鶴岡八幡宮を中心に、軍事都市鎌倉の都市造りをおこなった。八幡神は以後、源氏の氏神、さらに武家の守護神として広く崇敬されてめく。

頼朝が鎌倉の地に幕府を置き武家政権の拠点としたこと、また蝦夷の俘囚安倍氏の血統を引く奥州藤原氏をあへて(執拗に)殲滅したことも、武家の棟梁の初代源頼義の事績を再現する一種のパフォーマンスだった。そしてここまで述べれば、伊豆の田方郡北条(現在の伊豆の国市)の一土豪で、頼朝を娘婿とした時政が、なぜ平直方の子孫とされたのか(なぜそのやうな系図が作られたのか)、およその察しはつくと思ふ。

武家の棟梁の初代源頼義に鎌倉の地と娘を献上し、その娘が源氏嫡流の男子を生んだといふ桓武平氏直方の事績は、北条氏によって、時政と政子の事績に重ねあはされたのだ。そして頼朝との姻戚関係を背景に幕府の実権を握った北条時政と義時そして政子は、平安時代以来の坂東平氏の名族をつぎつぎに滅ぼしてゆく。

<源平交代の歴史へ>

元久2年(1205)には畠山重忠、承元3年(1209)には和田義盛が北条氏によって滅ぼされたが、両人とも『平家物語』にその剛勇が語られ、鎌倉幕府の草創に大功のあった「十三人」の主要メンバーである。そして「十三人」のなかでも、最大で最後のライバルの三浦氏は、宝治合戦(宝治元年=1247)で北条氏に滅ぼされ、ここに北条氏の専制体制は確立することになる。ほぼその頃だらう、北条時政を桓武平氏直方の直系とする北条氏の系図も作られるのである。

北条氏が桓武平氏とされたことで、『平家物語』の語る源平交代史は、以後の武家政権の推移史を規定してゆく。平高時を滅ぼした源尊氏の足利将軍家は、平資盛(清盛の孫)の子孫を称した平(織田)信長によって滅ぼされ、平信長の陪臣の豊臣を滅ぼした徳川家康は、清和源氏新田流の由緒を主張する。源平交代の物語が、七百年におよぶ武家政権の歴史をつくってめくのだが、その具体的な経緯については、紙数の制約もあるので、いづれ別の機会に述べたい。」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。