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【神社新報 コラム】神宮だより 戦国時代の「御杣山」(みそまやま)

投稿日:2017年9月23日(土)


今日・明日はふじさわ市民まつり!天気も何とか持ち直しましたね。権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』平成29年7月17日号コラム「神宮だより」をご紹介致します。

神宮だより 御杣山
「【神宮だより ~戦国時代の「御杣山」~】

「御杣山(みそまやま)とは式年遷宮において社殿造営に必要な御用材をいただく清浄な山のことです。古くは伊勢に聳える山々に定められましたが、造営にはヒノキの大径木が必要となるため、適材不足に直面してたびたび移動します。ただ、それだけが移動の理由とは言ひ切れません。ここでは御杣山変遷の歴史の一端を御紹介致します。

興国六年(1345)に斎行された外宮の第三十五回式年遷宮では御杣山を美濃・白河山に定めました。これは本来、御用材を採取すべき宮川流域が政情不安のため適材を供給できなかったことに起因します。美濃は有数の林業地でしたので、以後、戦国時代の遷宮中断に至るまで御用材を得ることとなりました。

時は下って、永禄六年(1563)に斎行された外宮の第四十回式年遷宮では、後奈良天皇の綸旨を受けた慶光院清順上人が諸国を勧進して造営料を募りました。その協力者には美濃の戦国大名・斎藤氏がゐました。この時の遷宮記録である『永禄記』には、弘治二年(1556)四月一日、外宮禰宜が斎藤道三の許に使者を遣して御用材を木曽川へ流す際に支障がないことを請ひ、道三は過書(=通行許可証)を付与したとあります。そこには息子・義龍の添状もあり大小二千本のヒノキが採取されてゐたこともわかります。

そして文書の発給から二十日後に長良川の合戦が起こり、道三は義龍に討たれますが、翌年には御用材が木曽川から桑名を経て大湊に届けられました。秩序が崩れた乱世にあっても御杣山の営みが滞ることがないやう、時の人々は務めを果たしてきたことが窺へます。

なほせんぐう館では企画展示「式年遷宮はつづく~御杣山~」を九月二十五日まで開催してをります。」


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