投稿日:2022年8月15日(月)
本日は8月15日、終戦記念日です。苦しい時代を生きた先人達に追悼と感謝の意を捧げたいと思います、権禰宜の牧野です。神社では定刻より宮司の奉仕により月次祭を斎行いたしました。平和な時代の中でこうして日々の奉仕が粛々と続けられるのは大変ありがたいことだと改めて感じます。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年7月25日号掲載のシリーズ「刀剣は語る」その25~後鳥羽院の菊御作~をご紹介致します。
「菊の花をかたどった紋が刻まれた刀剣があります。菊御作、菊作と呼ばれ、珍重されてきました。作り手は、鎌倉時代初期の第八十二代・後鳥羽天皇と伝はります。
京都国立博物館で開催された「京のかたな」展。都のあった京、山城国の刀剣が一堂に会したなかで、鎌倉時代前期を代表する刀として、後鳥羽天皇ゆかりのものが一角を占めてゐました。鎺下に細い線で切られた菊花の御紋。菊紋をよく見ると、花びらは十二弁、十六弁、その様もさまざまです。しかし、いづれも風格が漂ってゐるのは共通します。
後鳥羽天皇は、安德天皇が平家とともに西走したのち、皇位継承の象徴である三種の神器を欠いたままの即位となりました。さらに、壇ノ浦の戦ひで神器の剣が失せたため、刀剣に強い思ひを抱かれるやうになったといはれています。
そして譲位後、院政を執られるやうになってからは、天王山のふもと、水無瀬離宮のある地に鍛冶場を作り、なんと天皇親ら刀を打たれたといひます。天皇の手になる太刀は「菊御作」と重んじられました。また、後鳥羽天皇は山城・備前・備中などから名工を選りすぐり、御番鍛冶として月当番で作刀に当たらせたと伝はります。
かうした伝説が生まれた背景には、鎌倉で北条氏による執権政治がおこなはれる一方、源平の争乱から復興した西国では朝廷が勢ひを取り戻してゐた状況があります。後鳥羽天皇は分散してゐた広大な天皇家の荘園を手にされ、さらに北面だけでなく、新たに院の西面に勤務する武士、西面の武士を置かれるなど、着々と軍事力を増やしてゐたのです。菊御作や御番鍛冶が鍛へた太刀は、朝廷側の武士の士気を大いに高めてゐたことでせう。
国指定重要文化財「太刀 菊御作」は、全長九十六センチ、腰反りが高く、元幅と先幅に差がある細身の姿。板目肌の緻密な地鉄は山城粟田口派の作風に通じますが、刃文などには備前風の香りが漂ふといふ指摘がなされてゐます。優美で品格の高い一振りは、さすが菊御作と呼ばれるにふさはしいものです。
後鳥羽天皇は承久三年(一二二一)朝廷の恢復を図り、鎌倉の執権、北条義時討伐の院宣を下します。しかし、敗北に帰し、隠岐の島にうつされます。天皇はそこでも水無瀬離宮を懐かしがられ、鍛冶場を作り、刀工を召し抱へたと伝はります。天皇の刀作りへの御意が窺へます。
後鳥羽天皇ゆかりの鍛冶場の「離宮の水」は、今も水無瀬神宮に湧き続けてゐます。」