ホーム » ブログ » 【神社新報コラム】神宮だより~神宮と二見との関係~

【神社新報コラム】神宮だより~神宮と二見との関係~

投稿日:2018年6月19日(火)


昨日朝大阪府北部を震源に発生した震度6弱の地震、時間の経過とともに被害状況が明らかになってきました。

今回の地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます…権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』平成30年1月15日号掲載のコラム「神宮だより」をご紹介致します。

神社新報ロゴ

神宮だより

「【神宮だより~神宮と二見との関係】

現在、伊勢の二見は観光の名所として知られてゐる。文治2年(1186)に僧慶俊が筆録した『東大寺衆徒参詣伊勢大神宮記』によれば、同年4月28日に法楽奉納による両宮参宮のため伊勢に訪れた衆徒60人の内数人が、船に乗って二見浦を歴覧し、和歌を詠んだ記録があるので、中世以前からすでに名勝の地であったと思はれる。

この二見であるが、古くから両宮の神事にも欠かせない土地であった。五十鈴川河口の塩合(現在の汐合よりもさらに河口。勢田川と合流した五十鈴川が伊勢湾にそそぐ地点)をはさんで大湊と相対峙する高城浜(今一色より北の浜)は、外宮権禰宜河崎延貞が元禄13年(1700)に纏めた『神境紀談』によれば、9月13日に外宮長官の浜出の式があるので長官浜とも称したことがわかる。また「蘇民将来子孫家門」で有名な松下社の近辺にある神前浜(かうざきはま=鳥羽の池の浦の近く)について、建久3年(1192)に内宮権禰宜井面忠仲(いのもただなか)が著した『皇太神宮年中行事』には、内宮の贄海神事場であったことが記されてゐる。贄とは神聖な魚介のことをいふ。つまり神前浜は、六月月次祭や神嘗祭の由貴大御饌(ゆきのおおみけ)に供へる神饌を禰宜が採取する大切な漁場であった。

享保17年(1732)に高宮(多賀宮)玉串内人(権禰宜)喜早清在(きそきよあり)が編輯した『毎時問』には「外宮の法に、重服は打越、二見に浴し、軽服は高城、服忌の外の軽い穢(けがれ)は宮川にいくのが旧例である」との内容の記事が見られる。また清在は同19年に上梓した『圍爐間談』においても、父母や夫の服で十三カ月を過ぎて清まるときには高城浜に訪れ、次に打越、次に立石崎にいき、沐浴するのが本式であると述べてゐる。ちなみに立石とは、明治期を迎へるまでの夫婦岩の古称で、現在の二見興玉神社の辺りを立石崎と呼んでゐた。なほ、打越浜は高城浜と現在の御塩殿神社とのほぼ中間に位置する浜である。」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。