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明治維新百五十年 明治神道人の足跡 第二回 三條實美(1/2)

投稿日:2018年12月27日(木)


本日の日めくりより「楽しい笑いが若さを保つ秘けつ」権禰宜の新久田です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』では、本年が明治維新百五十年の節目にあたり、「惟神の大道」(日本民族の伝統的信念と生活原理)である神道に縁のある人物を対象として、幕末維新から明治の変革期に活躍した先人を取り上げ、思想や事績を回顧し明治の精神の顕彰と継承を目的とした記事「明治神道人の足跡」の連載がありましたのでご紹介を致します。

「明治神道人の足跡 第二回 三條實美(1/2)」

(國學院大學人間開発学部健康体育学科教授 藤田大誠)

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明治史上における三條實美の評価は、輔相や右大臣、太政大臣を歴任し(一時期、内大臣兼内閣総理大臣)、長らく「宰相」の立場にあったにも拘らず、余り芳しくない。その要因は、明治六年(一八七三)の「征韓論争」に際し、太政大臣として板挟みとなった三條が急病で人事不省に陥り、肝腎な局面において決断できなかったため、優柔不断で小心凡庸な人物と評されたことにある(毛利敏彦『明治六年政変』)。それ故三條は、「至誠の人柄で尊敬され、門地で維新政府の首相の地位についたが政治家としては決断に乏しく、実力者の岩倉に押されて名目的存在となった」(『国史大辞典』、大久保利謙稿)と見做されることが多い。

但し、夙に渡邊幾治郎は、「彼に決断なきがごときは、彼の性格の円満と諸事を慎重に解決せんとする細心の用意とに外ならない」と記し、また「維新群雄の間に介在し、その聡明と純情、私心を捨てゝ、能く群雄の協調を維持し、政局の安定を図つた」として、「維新日本の諸公卿中の第一等の人物」と評してゐる(『明治天皇の聖徳 重臣』、『明治維新と現代日本』)。

近年、「自分の力量・限界を弁え、ニヒルなまでに透徹した眼で現実に正対した政治家」(佐々木隆「内大臣時代の三条実美」)、「清華家の品位と高尚な資質は、政府内の調整役として重視され、晩年は天皇に近侍し、多くの栄誉職に就任した」(『明治時代史大辞典』、松尾正人稿)、「長所は責任感が強くどこまでも誠実な人であり、一方短所としては政治的に不器用で要領が悪い」(刑部芳則『三条実美』)とその人物像も再評価されてゐる。そこで本稿では、「神道人」といふ観点から三條の足跡を据へ直したい(坂本健一『天皇と明治維新』、武田秀章『維新期天皇祭祀の研究』等を参照)。

父子の敬神尊皇

三條家は、摂関家に次ぐ清華家といふ公卿の家格で、實美は天保八年(一八三七)二月八日、三條實萬第四子として京都・梨木の邸宅で出生した。その伝記は、『七卿西竄始末』、土方久元『回天實記』、『三條實美公年譜』、『三條實美公履歴』、德富猪一郎『三條實萬公 三條實美公』、三井甲之『三條實美傳』など多数ある。

實萬と實美は歿後、梨木神社に祀られた(明治十八年創建・別格官幣社列格、實美は大正四年合祀)。孝明天皇による攘夷の叡慮を奉体した實萬は、奔走の結果、安政の大獄に関連し落飾に至る。父の姿は、實美の思想と行動を決定づけた。

「今天神」と称せられた實萬は、諡号復古(光格天皇)や諡号奉告の儀(神式)の実現に尽力し、神祇官や祈年祭の再興、山陵修補、皇霊祭祀形成といふ構想を明確に持ってゐた(『三條實萬手録』)。また、實美の師・富田織部も「神祇官御再興」の意見を實萬に呈してゐる。(「胡蝶のゆめ」)。続く


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