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明治維新百五十年 明治神道人の足跡 第一回 岩倉具視(1/2)

投稿日:2018年11月21日(水)


昨日は、第11回白旗神社氏子崇敬者日帰りバスの旅、お疲れ様でした!無事に帰宅できホッとしました。権禰宜の新久田です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』では、本年が明治維新百五十年の節目にあたり、「惟神の大道」(日本民族の伝統的信念と生活原理)である神道に縁のある人物を対象として、幕末維新から明治の変革期に活躍した先人を取り上げ、思想や事績を回顧し明治の精神の顕彰と継承を目的とした記事「明治神道人の足跡」の連載がありましたのでご紹介を致します。

「明治神道人の足跡 第一回 岩倉具視(1/2)」

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(神社新報記者 國學院大學研究開発推進機構PD研究員 半田竜介)

岩倉具視ほど、幕末維新期に活躍した人物のなかで評価の分かれる人はゐないだらう。和宮降嫁以来の「姦物」といふ印象が根強いが、「維新の元勲」といふ高い評価もみられる。

昨今、明治維新百五十年関係の催しも多く、維新を見直す書籍などもあるが、岩倉に焦点をあてたものは少ない。しかし、岩倉がゐなければ「王政復古の大号令」渙発はなく、三条実美とともに公家勢力の中心として、天皇のもと、武家との共存で維新政府を樹立、確立させることも難しかったであらう。

次いで特筆すべきは明治四年から六年にかけての欧米視察以降に本格化する皇室制度・憲法制定過程における岩倉の働きである。今日、御代替りを来年に控へ、また憲法改正議論も活潑化してゐる折柄、その足跡を振り返ることは相応の意味があると思料する。これが連載開始にあたり、岩倉の事績から皇室・憲法を中心に顧みる理由である。

即位式と改元

岩倉具視は文政八年(一八二五)九月十五日、下級公家の堀川家に生まれ、のちに岩倉具慶の養子となった。岩倉家も下級公家だったが、村上天皇から出た家系で、具視も幼少の頃より祖父・具集から皇朝の歴史や、岩倉家も連座した宝暦事件のことを聞き、勤皇の志を逞しくしたといふ。

幕末の国事多端においては、孝明天皇の叡慮に応へ和宮降嫁による朝幕宥和政策を進めるも失脚。だが不撓不屈の人・岩倉は蟄居中も王政復古に向けた政治構想を練り続け、同志を通じて朝廷の要路に示してゐる。そして薩摩藩や長州藩、また三条実美との提携を果たし、「王政復古の大号令」渙発に至る。

ここに謳はれた「王政復古」「神武創業」の理念——「復古」と「御一新」の精神——は、慶応四年八月二十七日の明治天皇の即位式にも反映され、岩倉は旧来の唐制の影響が強い儀式ではない新式を目指した。岩倉と近似の考へを有してゐた国学者・福羽美静が登用され、古典に基づきつつも開明の世運に順応した新式を案出し、儀式への維新官僚参列などが断行されたのである。

即位式を終へた翌月には改元の詔により明治と改元し、一世一元制を制定。治世のはじめに改元したのち、御在位中はその元号を用ゐるこの制は、岩倉が建議し天皇の裁可を得て実現した。国家の重事たる改元はそれまで、瑞祥や災異など諸種の理由で一代に数回おこなはれることも珍しくなかった。その煩瑣な手続きを廃し、代始改元に限定したのが一世一元制で後世の規式として明治皇室典範第十二条に「践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ従フ」と明文化される。

続く


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