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明治維新百五十年 明治神道人の足跡 第一回 岩倉具視(2/2)

投稿日:2018年11月28日(水)


本日の日めくりより「朝の十分間が一日の成果をきめる」権禰宜の新久田です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』では、本年が明治維新百五十年の節目にあたり、「惟神の大道」(日本民族の伝統的信念と生活原理)である神道に縁のある人物を対象として、幕末維新から明治の変革期に活躍した先人を取り上げ、思想や事績を回顧し明治の精神の顕彰と継承を目的とした記事「明治神道人の足跡」の連載がありましたのでご紹介を致します。

「明治神道人の足跡 第一回 岩倉具視(2/2)」

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(神社新報記者 國學院大學研究開発推進機構PD研究員 半田竜介)

立憲制に向け

明治六年に岩倉らが欧米視察・調査から帰ったのち、征韓論の紛議を経て、次第に自由民権運動が加熱。政府も八年に元老院を設け、国憲の制定に向けた準備を始める。この元老院が作成した国憲案では憲法と皇位継承法とを同一法規でまとめてゐたが、この構成に異を唱へたのが岩倉であった。議会政治に不信感を持ってゐた岩倉は、皇位継承を政治論議の圏外に置くことを考へ、元老院国憲案を否定したのである。

そこで法制官僚・井上毅をして十四年に「憲法綱領」(岩倉綱領)を作成。「祖宗以来ノ遺範」、すなはち皇祖皇宗の遺範に基づき皇室の伝統に則した皇位継承法を作成することを宣言し、憲法と「皇室ノ憲則」とを区別する構想を立てた。

この典憲を分ける構想が伊藤博文と井上毅に継承され、その後の起草作業の方針となり、明治二十二年の大日本帝国憲法と明治皇室典範の制定に至る。この点からも岩倉が果たした立憲制度における功績はすこぶる大きい。

同時期に取り組んでゐた華族制度の見直しと皇室財産の拡充も、偏に皇室の基盤を確立させるためのものである。皇室を思ふ憂国の情が岩倉をして天皇・皇室を無窮に存続させるための制度確立に走らせたといへよう。

鉄の意志・岩倉

幕末から不断の活動を続ける岩倉も次第に衰へをみせる。しかし病中の身を押して、往時の活気を失ひつつあった京都の復興に邁進。かつて東京奠都を断行した際、一千年の伝統を有する京都を重んじる多くの伝統主義者が岩倉を憎んだが、岩倉は決して京都を切り捨てた訳ではなかった。加茂・石清水両祭の復興や平安神宮の創建、江戸後期の宮中行事を記録した『公事録』などは岩倉の功績による。さらに特筆すべきは即位の礼・大嘗祭の京都執行である。岩倉は明治十六年一月、国家至重の大典である即位・大嘗・立后の三礼を平安京(京都)で皇室の古い伝統に準じて執行すべきとの国事意見書を提出。これを受け四月二十八日、明治天皇より大嘗祭及び即位の礼を京都御所にて執行すべき旨の聖旨が示されてゐる。病床で吉報に接した岩倉の感激はいかばかりだったか。そしてこの聖旨は明治典範第十一条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」に繋がり、「京都ニ於テ」の明文化となる。

その後、食道癌の進行により明治十六年七月二十日に岩倉は薨去(享年五十九歳)。悲報に触れられた明治天皇は「朕幼沖ニシテ阼ニ登リ一ニ匡輔ニ頼ル啓沃誨ヲ納ル誼師父ニ均シ」との誅辞を贈り長年の功績を労はれた。

贈太政大臣・岩倉具視は臣下として初めて国葬で葬られた。後年、憲法・典範の制定日に岩倉の墓所で勅使が奏上した大命には、憲法と典範の制定が「専汝命乃大功績」とあり、これ以上ない讚辞が贈られてゐる。

さて、岩倉の数ある事績の若干を述べてきた。岩倉は幕末維新といふ未曾有の変動期に、いかに伝統を保持した上で新時代に相応した、天皇を中心とする近代国家を築くか、終生考へ続けた「鉄の意志」(岩倉の臨終を看取ったドイツ人医師ベルツの日記より)の持ち主だったと評せよう。

また、敢へて附言すれば、帝国憲法や明治典範の条目の一条一句をみても、その背後には岩倉ら先人の苦慮や試行錯誤がある。そのことも明治維新百五十年に際して思ひを致すべきであらう。


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