投稿日:2019年5月21日(火)
今日のブログは説明が長いため「シリーズ神道百言」のみと致しました。
今回の神道百言は腑に落ちず、モヤモヤしております。宮司です。
【神道百言㉙】
『天地(あめつち)や月、雪、花の色香こそ 天津祝詞の太祝詞ごと』~川面凡児・天津祝詞~
大祓詞を読誦し、これを究明して最後に辿りつく問題点は「天津祝詞の太祝詞ごと」とは、何を意味するのかの問題に尽きる。
「これを宣れ、かく宣らば」として、天津罪・国津罪はこの「天津祝詞ごと」を宣ることによつて清められるとされてゐる。
そのやうにして、すべての罪穢が清められる「天津祝詞の太祝詞ごと」とは、いかなることばであつたか。
古人は、このことばを求めて苦労した。
或る人は、これは「大祓詞」の全文を指したといふ。或る人は、特定の「祖神のおことば」を指すのであるとする。
その「祖神のおことば」とは、いかなるものかを求めて苦労されたのである。
これに対し、明治、大正の神道家であった川面凡児はその弟子に対し、口伝として、この信仰歌を提唱して、その境地を説明した。
天地自然が出現して、自分達を抱きかかへ、その間に春は花、秋は月、冬は雪といふやうに、(雪月花とは、自然のめぐみを表現したもの)、自然の色香の恵みをあらはし、自分達に自然を親しませてくれ、人々はそれに情感を合はせ、或は楽しみ、或は悲しみの情を吐露してゐる。
この天地の本然の姿、その上に表現されてゐる雪月花の色香、それはすべて、これらを生んでくれた大祖神の心の働きそのものであらねばならぬとした。
大祝詞(大祓詞の誤植?)にいふ「天津祝詞の太祝詞ごと」は、つまるところ、この祖神の心・働き・意義を表現したものであるとすべきだといふのが、この信仰歌の意味するところといへよう。
修験道諸神勧請通用文(日本大蔵経、修験道草紙)のうちにも「風雨も花も紅葉も月雪も何れも神の姿なりけり」とある歌も、これと同じである。