投稿日:2018年5月19日(土)
後水尾天皇は、故隆慶一郎氏の『花と火の帝』にも主要人物のお一人として登場されます。氏の逝去に伴い未完となってしまったのが惜しまれる作品でした…権禰宜の遠藤です。
さて、神奈川県神社庁では、平成30年の社頭掲載のポスターや、月毎の配布物に古くから伝わる御製(歴代天皇のお詠みになられた和歌)や神道に関わりの深い和歌を掲載しています。
平成30年5月
後水尾天皇御製
「絶えせじな その神世より人の世に うけてただしき 敷島の道」
後水尾天皇(ごみずのおてんのう)は、後陽成天皇の第三皇子。慶長十六年(1611)、十六歳で即位。
元和三年(1617)後陽成院は崩御され、同六年、徳川秀忠の娘和子(まさこ)を中宮に迎えられます。
幕府より多大な財政援助を受ける一方、朝廷の無力化をはかる施策には反発し、寛永四年の紫衣事件が直接の原因となって、寛永六年(1629)、皇女である興子(おきこ)内親王に譲位(明正天皇)されます。
以後、四代五十一年にわたり院政を敷かれます。和歌を重んじ、廃絶しかけていた宮中の行事を復活させるなど、朝廷の風儀の建て直しに努められ、慶安四年(1651)、落飾し法皇となられます。
延宝八年(1680)、老衰により崩御。八十五歳。泉涌寺において葬礼が行われ、月輪陵に葬られました。
和歌約二千首を収める『後水尾院御集』(鴎巣集ともいう)。二十一代集以下の諸歌集から一万二千余首を類題に排列した『類題和歌集』三十一巻、後土御門天皇以後の歌人の歌を集めた『千首和歌集』などを残されました。叔父智仁親王から古今伝授を受けられています。
和歌のほかにも立花・茶の湯・書道・古典研究など諸道に秀で、寛永文化の主宰者ともいうべきご存在であったといわれています。
『玉露藁』『当時年中行事』『和歌作法』など著作も多く、洛北に修学院離宮を造営されました。
裏面は、もう過ぎてしまいましたが五月の祝日についての解説です。
毎月社頭に設置しております。五月分は残り少なくなっておりますので、ご興味のある方はお早めにどうぞ。