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【伊勢神宮崇敬会だより みもすそ】特集 斎王の宮④

投稿日:2017年5月14日(日)


昨日・今日とインターネットTVで神田祭の中継が行われています(神田祭インターネット中継)。時代の流れを感じます…権禰宜の遠藤です。

さて、伊勢神宮崇敬会だより「みもすそ」平成29年春号に掲載されている、特集「斎王の宮」をご紹介致します。今回はその第4弾(最終回)です。

過去の記事はこちら→その1その2その3
みもすそ 表紙

歴史に興味にある方は勿論、本年6月3・4日に第35回斎王まつりが三重県明和町にて行われますので、斎王まつりにお越しになる方はその予備知識としてご一読いただけましたら幸いです。

みもすそ 斎王の宮4

みもすそ 斎王の宮5
「【団地開発で発見された幻の宮】
斎王制度が廃絶されてからの斎宮は、長らく人々の記憶から忘れ去られていました。その存在が再び脚光を浴びたのは、戦後の高度経済成長期。昭和四十四年(1969)、斎王宮跡と推定されていた明和町古里地区に団地造成計画が持ち上がり、三重県と明和町の教育委員会が状況把握のため試掘調査を行ったところ、該当地区から多量の土器片や建物の柱穴・大遺構などが確認されたのです。
翌年、かつて大きな国の役所で使われた蹄脚硯(ていきゃくけん)の破片が発見されると、遺跡保存の声が全国的にも高まり、約百三十七ヘクタールが国の史跡に指定されました(昭和54年)。
「斎宮跡は、櫛田川と宮川にはさまれた洪積台地上にあり、東西約二キロ、南北約〇.七キロと大規模。これまでに発掘調査は百八十九回行われましたが、それでも全体の約十六パーセント。全容解明にはまだまだ時間を要します」
そう語るのは、「斎宮歴史博物館」学芸普及課主査の角正芳浩さん。ここは平成元年に建てられた三重県立の博物館で、明和町とともに発掘調査などを行い、その研究成果を公開しています。
「ひとつの史跡からいくつもの時代を示す土器や硯が多数見つかっているのが斎宮跡の大きな特徴です。文字が書かれた木簡が見つかれば、もっと斎王の日常なども分かるのですが、乾燥した土壌のため残念ながら出土しないのです」
史跡内の建物はすべて、史跡を壊さぬよう杭を深く打ち込まない基礎工法がとられているそうです。
展示物一つに珍しい絵図のパネルがありました。江戸時代に描かれた『伊勢両社宮図』で、そこには両正宮内に斎王候殿(こうでん)と女官の控えの建物が確認できます。現在この位置には四丈殿がありますが、いつ頃建物の変更があったのか、ここでの奉仕はどのようなものであったのか、想像がふくらみます。
【平城京をモデルに】
世間から隔絶され「幻の宮」といわれた斎宮寮には碁盤の目状に広い道が走り、生け垣で仕切られた区画には百棟以上の建物が並ぶ、平城京さながらの一大都市でした。斎王を支えるため、さまざまな役割を担う官人が数百人以上勤めた役所(国家機構)だったのです。
斎宮寮が太宰府など他の国役所と異なるのは、斎王の私生活を支える内侍(命婦)、乳母以下の女官が組織されていたこと。女官らは斎王の身の回りのお世話をするだけでなく、歴史や和歌を教える教育係でもありました。
長らく埋もれていた斎宮の歴史を後世へ伝えるため、平成二十七年には斎宮寮の中心的な役割を果たした建物三棟が、発掘場所に実物大で復元されました。
その西側には、平安時代の区画が一望できる十分の一スケールの史跡全体模型が再現され、そばには盤双六や貝覆いなどの平安文化を体験できる「いつきのみや歴史体験館」があります。
参宮街道沿いにある竹神社は、斎王の宮殿があったと推定される神聖な場所。発掘調査では、女官がひらがなの練習に使ったといわれる墨書土器がここで見つかりました。町内には、ほかにも隆子女王の墓や、業平松など、斎王ロマンを伝える旧跡が点在しています。
竹神社から街道を東へ進んだ伊勢市小俣町には、斎王が神宮の祭りへ赴く際に宿泊したとされる「離宮院跡」が史跡公園として残され、梅や桜の名所となっています。
今年の斎王まつりは六月三・四日。ノハナショウブが咲く頃に、斎宮を訪ねられてはいかがでしょうか」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
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