投稿日:2017年9月21日(木)
日差しは熱いですが、空気はすっかり秋のものです。カラッとして清々しいですね。権禰宜の遠藤です。
さて、公益社団法人 国民文化研究会発行の『国民同胞』平成29年6月10日号より、「祖国とは国語だ」ど題して寄稿された文章を紹介致します。
少し長いので、何回かに分けて掲載致します。今回は第1回、「目に余る「なので」の誤用」です。
「祖国とは国語だ」~平成の言語感覚に就いて~ 占部 賢志(中村学園大学教授)
目に余る「なので」の誤用
昨今の言葉遣ひには不倫快な事が 多い。なかでも、「午後は雨になりさうだ。なので傘を持って行かう」 といふやうに、頭に「なので」をつけるケースだ。正しくは、断定の助動詞「だ」の連体形「な」に接続助詞「ので」がついた語であるから、「午後は雨になりさうなので、傘を持って行かう」と言ふべきなのに、誤った使ひ方をテレビ局のアナウンサーまでが平気で口にする。気にし始めると、耳障りこの上ない。
昨秋、BSフジテレビの「プライムニュース」にゲスト出演してゐた 防衛大臣が安全保障について語りながら、この「なので」を連発するのを見て唖然とした。つい先日は、時事問題を扱ふ読売テレビ系の人気 トーク番組で保守を自任する某大学教師が、同じく「なので」を誤用して皇室問題を語ってゐたが、これには苦笑のほかなかった。
ルーマニアの思想家シオランは、「私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ」(『告白と呪詛』)といふ事を言ってゐる。肇国以来、真摯で複雑な国語国字の創出を経験して来た、我々日本人の苦心の様は太安万侶が書き残した『古事記』序文に片鱗を窺ふ事が出来るし、国語の威力については、古今和歌集の仮名序に紀貫之が書き留めてゐる。
広く世界を見ても、国語守護は不変の事実である。祖国が危機に瀕したとき、人は国語の防護に目覚める。ドイツでは、フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」と題する連続講義においてドイツ語の守護を訴へてゐる。
いづれにしても、国語を粗末に扱ふ人に、はたして国防の何たるかや、皇室の皇室たるゆるんが語れるのか、私は怪しむ。