投稿日:2020年3月23日(月)
本日は春の彼岸明け。故人を偲び、祖先に感謝を伝える彼岸の最後の日にお墓参りしてみてはいかがでしょうか。権禰宜の佐藤です。
さて、神社界唯一の業界紙である『神社新報』令和2年1月13日号掲載のコラム「こもれび」を御紹介致します。
【こもれび~祖先祭祀と死者の尊厳性~】
「三島由紀夫は、昭和30年代の都知事選を描いた小説『宴のあと』において、野口雄賢と結婚したヒロイン・かづに、次のやうに語らせた。
「ああ、これで私は野口家の墓に入れる!安住の地がこれで出来上った」……かづが今やその人たちの一族に連なり、その人たちの菩提所にいづれ葬られ、一つの流れに融け入って、もう二度とそこから離れないといふことは、何といふ安心なことだらう。何といふ純粋な瞞着(まんちゃく)だらう。かづがそこへ葬られるときこそ、安心が完成され、瞞着が完成される。
この一節を読んだとき、私は大きな衝撃を受けた。かづの結婚前、そして離婚後それぞれの気持ちの変化を三島はみごとに描いてゐる。ただ、私が注目したのは、かづが野口家の墓に入ることにより安住の地、安心を得たといふ行(くだり)である。三島は、先祖代々に互る連綿した家の流れのなかに自らを置くことにより心の平安を得て、またそこに「瞞着の完成」をみた、とする。
三島は、この「瞞着」といふことばの中に、「家の永続性」の理念と事実としての困難性(=虚構性)を表現し、この狭間に日本人の心性の美学をみたのだらう。
前回、私は伝統的な日本人の安心のシステムとして「自らを先祖と子孫の循環におくこと」であったと述べた。日本人はこれまで努力して家の永続性を維持してきたが、現在多くの先進諸国と同様に少子化現象の中で、家の永続性が困難であることを実感するやうになった。
そのため、伝統的な安心のシステムが動揺し、人々の新たな模索が始まった。ここには二つの問題がある。それは、自分が拠り所とした伝統的な安心のシステムが失はれつつあること、そして残された生者の死者に対する慰霊の姿勢が大きく変化してきたことである。伝統的な安心のシステムの崩壊の先にあるのが、無縁改葬や「墓じまひ」の流行だ。
また、承継者を必要としない葬法(散骨や合葬式共同墓)が登場するのもその表れである。ただ、これによって死者(=先祖)が救済されるわけではない。
また、生者による慰霊の在り方も大きく変はった。かつて「生を全うした死者」は伝統的な地域の中で尊敬・顕彰されてきたが、現在では地域・社会の中で高齢者が忘れられ、むしろ異常死だけが注目されるやうなった。
家といふ小さな枠組みで先祖(=死者)の尊厳性を維持することができたが、現在、死者は誰にも保護されなくなってゐる。
家族(=子孫)による安心の装置が保障されず、死者が社会からも保護されないとすれば、死者はいつまでも安住の地を持つことができず、彷ふととになる。死者はこれまで家族だけではなく社会にも貢献し、「この世」を支ヘてきた。
その意味では、死者は社会の子であり、安住の地も社会によって再構築されなければならない。」
」