投稿日:2022年8月5日(金)
今日8月5日は「世界ビール・デー(International Beer Day)」。2007年にアメリカ・カリフォルニア州サンタクルーズで開始されました。最近のことですね。友人たちと集まってビールを楽しみ、醸造会社などビール製造に関わる人たちに感謝をする日だそうです。今晩は作り手に感謝の心を捧げながら、ビールを味わいたいと思います…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年3月21日号掲載のコラム「杜に想ふ」をご紹介致します。
【杜に想ふ~べし~】
当然だと信じてゐたが実は当然ではない、といふ事柄は多い。
例へば「三大神勅」とは天壌無窮・宝鏡奉斎・斎庭之穂の神勅が当然だと思ってゐたが、三大神勅なる考へ自体が近代の産物で、しかも戦前はしばしばそこに神籬磐境の神勅を入れてゐたりと、固定したものではなかったらしいと最近知った。
春を迎へ、新社会人が巣立つ季節だ。大人になるのも二十歳が当然のことと思ひ生きてきたが、この四月には民法が改まって十八歳からが成年となる。高卒直後の就職者も既に成人といふこと。ただ考へてみれば、古来の元服にも定まった年齢などなく、七、八歳のこともあれば三十代での例もある。長い目で見れば、社会の一員として認められる年齢も一律二十歳が当然とは云へない。
新人研修も始まるこの時期はまた、各所で立派な大人たちが若人に「社会人は当然かうあるべきだ」といった「ベき論」を垂れて、辟易されてゐる頃でもあらう。連想するのは教訓茶碗といふ酒器だ。注ぐ液体が一定量を超えると底の穴からすべて流れ出る仕掛けの杯で、慾張って飲まうとすればすべて失ってしまふといふ教訓を示すものだが、有り難い訓示も度が過ぎれば教へは右耳から左耳へと抜けてしまふことに通じてゐる気もする。
酒器には可杯(べくさかづき)といふものもある。注がれた酒を飲み干さねばならない猪口で、底に穴があって指で塞がねばならなかったり、独楽のやうに尖ってゐたりして、下に置けない構造をしてゐる。漢文では「可」の字を「吾子孫可王之地也」とか「可三与同床共殿、以為斎鏡」とかのやうに下に置かないことからこの名が付いた。遊興の座でなら楽しい道具だが、乗じて酒を無理強ひするのに使ふなら戴けない。同様に独り善がりな「べき論」も一方的に聞かせられるのは苦痛を伴はう。
もっとも、お小言を云はねばならない立場といふものもある。本欄のやうなオピニオンもさうで、なにも好んで世を評してゐるわけではない。社会の幸ひを願ったものだ。とは云へ偉ぶった評論なんぞ小煩いだけであって胸に残らないのだから、せめて拙いながらもユーモアだけは忘れずにゐたいと思ふ。
江戸時代後期の備後国の儒学者・菅茶山の漢詩にとのやうなものがある。
一杯人呑酒
三杯酒呑人
不知是誰語
吾輩可書紳
「酒人其扇を出して書を索む」と題する作で、一杯なら人が酒を飲むが三杯ともなると酒が人を飲む、これが誰の言葉かは知らぬが私はいつもこれを心に留めてるよう、といふ内容だ。同旨の記述は江戸中期の天文学者・西川如見の『町人嚢』にも見える。扇に一筆求めてきた酒客に飲み過ぎを戒める詩を作る。といふのもユーモアに富んでゐて好ましい。・当然と云ひ切れるものは無い。後進を導く同じ「ベき論」でもユーモアのある方が人を、動かすのだと肝に銘じておくべきなのだ。」