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【神社新報特集記事】刀剣は語る~霊山と龍馬殺害の刀~

投稿日:2021年2月3日(水)


【暦で見る九星の運勢シリーズ】九紫火星:2月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…東 少しずつズレを生じやすくなるから気を付けて。余裕はあるので、もしズレを発見したらすぐに手直しを。面倒だからとか、時間が無いからといって、手抜きをすると後日に響く

」とのことです…権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和2年11月9日号掲載の特集記事「刀剣は語る」をご紹介致します。

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刀剣は語る

【刀剣は語る その伍】~霊山と龍馬殺害の刀~

「京の町を見下ろす東山三十六峰。その一つ、霊山には、幕末の勤皇志士たちの墓碑や御霊がまつられてゐます。
この地に霊山招魂社(現・霊山護國神社)が建てられたのは、明治元年、新政府によって発せられた太政官布告によってのこと。新たな国づくりをおこなふ上で、国に一身を捧げた志士たちへの鎮魂をまっ先におこなってゐたのでした。
そこに、坂本龍馬を斬った刀があるといふのです。坂本龍馬は土佐藩脱藩後、薩長連合を画策し、大政奉還に尽力するも、京都河原町の醤油商、近江屋で中岡慎太郎とともに幕府側の京都見廻組の刺客に襲はれ、絶命しました。慶応3年(1867)11月15日。大政奉還が実現された、ひと月後のことでした。刺客は7人から8人。そのうちの一人、早之助が所有してゐた大小の刀が、霊山歴史館に展示されてゐました。
この刀が見つかったのは、同館で副館長を務めてゐた木村幸比古さんが高知県で講演した際、地元の郷土史家が語ったことがきっかけです。「京都にあるはずだと言はれたので、桂家へ足を運びました。そこで5、6本譲ってもらったのです。そして子孫の方から、これですと渡されたのが、こちらです」。
館内の入り口を入ってすぐの展示ケースに、明るい照明に浮かび上がる、錆びた脇差。長さ42センチほど、刀身も茎も錆び付いて、刃もこぼれてゐます。茎には、「越後守包貞」と
銘が切られてゐますが、偽銘であることがわかってゐます。
「あの龍馬が、偽銘の、こんな小さな刀で斬られたのか、心外に思ひました。早之助が所持してゐたもう一振りの太刀は刀身が輝いてゐるのに…
「脇差は錆び付いて、磨くことができませんでした」と木村さん。早之助は龍馬殺害の数カ月後、鳥羽伏見の戦ひで負傷し、戦死。28歳のことでした。早之助のその子孫も、龍馬を斬った脇差を手入れすることができなかったのではないか、錆び付いた脇差に揺れる思ひを感じました。
当時調査した川田瑞穂氏は、最初から室内の闘争を想定して、小太刀の名手である早之助を送り込んだこと、そして早之助の娘婿に見せてもらった刀は、尺に足るか足らぬかの脇差程度のものであったと郷土誌に記してゐます。
展示室には龍馬殺害の刀のほかに、新選組の副長・土方歳三が戊辰戦争で使用した刀、局長・近藤勇の、刀身が長く、厚く、重い刀が展示されてゐました。黒船来航とともに再び混乱の時代へ突入した幕末。その時代の若人たちがそれぞれに志を持ち、愛刀を腰に差し、動乱の世を生き抜いたのです。
幕末維新の資料を展示する館内は、思ひのほか、若い男女の姿がありました。戦のない時代に生まれた若者に、幕末の志士たちの刀はどのやうに映ってゐるのでせうか。」

R3厄年表


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