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【神社新報記事】「シリーズ大嘗祭 ①大嘗祭の本義」

投稿日:2019年3月15日(金)


本日は山下公園開園の日だそうです。昭和5年ということなので、あと10年程で開園100年ですね。権禰宜の新久田です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』平成31年1月1日号掲載の記事「シリーズ大嘗祭 ①大嘗祭の本義」をご紹介致します。

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神社新報 大嘗祭①-1 神社新報 大嘗祭①-2

【シリーズ大嘗祭 ①大嘗祭の本義】

「大嘗祭とは、天皇即位後一代一度執りおこなはれる重儀である。その核となる部分、とくに天皇の御所作については実際に窺ひ知ることができないものの、史料を調べていくと、今日の神社祭祀と深く関はってあることが改めてわかる。

《大嘗祭の「秘儀」》

大嘗祭は悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)を中心とした、いはゆる大嘗宮を造営して斎行される。大嘗宮の儀の祭日は古来、11月の中の卯の日を基本とし、平成の例ならば、平成2年11月22日午後6時30分から9時30分くらゐまで悠紀殿の儀、翌23日午前0時30分から3時30分くらゐまでに主基殿の儀が、まったく同じ次第で執りおこなはれる。

殿内の儀式について、かつて折口信夫先生が昭和の初めに、坂枕(さかまくら)や八重畳(やへだたみ)等が奉安された中央の神座で秘儀がおこなはれる旨の、いはゆる真床覆衾論(まどこおふすまろん)を出され、昭和40・50年代頃にはそれを基として、世紀末思想も相俟り、いはゆる聖婚儀礼説などが真しやかに取り沙汰された。今も、かつてほどではないものの燻り続けてゐる。

私は平成2年、史料の記述などからさうした「秘儀」はないと論じた。とくに聖婚儀礼については、神話の中での神と神とではなく、神祭りをする立場の人と神とでは成り立つだらうか、と疑問を持った。天皇といへども奉仕する立場であり、はたして祭りの一番大事な場所・場面で実際に行為があるだらうかとの思ひもあった。

《神座の位置付け》

当時注目した史料の一つに、平安時代末期の日記『大嘗会卯日御記』がある。作者である摂政・藤原忠通が5歳の崇徳天皇の大嘗祭で奉仕した際の記述に、天皇が「顔六借(すこぶるむつがる)」様子が見られ、抱いたりあやしたりしたことが詳しく書かれてあるものの、中央の神座を使ってゐる様子は確認できない。もしあまりにも駄々をこねるなら中央の神座で寝かしつけるなどするのが最も効率がよささうだが、お菓子をあげに廻立殿に戻った記述等はあるものの、神座を用ゐた形跡は見られなかった。

また鎌倉時代の後鳥羽上皇による『後鳥羽院宸記』には、殿内での動きを描いた図が遺ってをり、天皇の通る「御路(おんみち)」が中央の神座を避けて西側から北を通って東側の御座へと至ってゐて、帰りは逆の動線であることからも、神座に入らないことがわかる。

では、この神座の意味するものとは何だらうか。そして、大嘗祭の最も重要なこと、本義とは何だらうか。それを考へるのに、やはり『後鳥羽院宸記』を挙げたい。そもそも本史料は、後鳥羽上皇が自身のお子様・順徳天皇へ大嘗祭にあたっての作法の要点を残された史料である。そこで示された要点とは、まづ供へる神饌の並べ方である。横に並べるか円形にするかの二種類があり、横に並べるのが成人の天皇による正規の作法で、円形は平安時代後半から見られる幼帝の場合の、神事が長時間に亙ることを避ける特別な作法だといふ。

また、供へられる神饌のうち、御飯には稲のほかに栗もあることが挙げられ、これこそが「秘事」であると書かれてゐる。天皇から天皇へ伝へられる作法の書に「秘事」と記されてある意義は大きい。大嘗祭の秘儀とは、「中央の神座で何かあるといふことではなく、主に「お食事の作法と内容、とくに栗の御飯が入るといふことだったといへる。

神饌の供進については、中央に神座があるにも拘らず、東南、つまり伊勢の神宮の方角に向かって奉られることが注目される。明治の大嘗祭は東京で斎行されたため西南に変はってゐる。ただ一方で、悠紀殿・主基殿ともに、古代の例では神座を奉安して明かりを点灯するを以て、神一の来臨を観念してみたやうだ。作法は伊勢の方角に向かっておこなはれてをり、意識は伊勢の神宮に向いてゐることを踏まへると、中央の座は神がお休みになられる場所として用意されてゐる「見立ての座」だと考えられる。この辺りの感覚は、現代の意識や神社祭式などとは異なるので難しく、注意して考へていかなければならないだらう。

《大嘗祭での祈り》

では、さうした所作を以ておこなはれる大嘗祭には、どのやうな祈りがこめられてゐるのか。東山御文庫に遺されてゐる、櫻町天皇が大嘗祭に際して奏された祝詞が書かれた笏紙(しゃくがみ)から考えていきたい。

ここで全文を示すことはできないが、前半は、五穀豊穣に関するもので基本的には毎年の新嘗祭と同じである。「伊勢のいすゝの河上に御座す天照太神、天津やしろ國つ社のもろゝの神たちに申て申さく」で始まってをり、天照大神に奏上することが第一義であり、「もろゝの民をすくハむ」との願意であることがわかる。

後半については、「たかきやま、ふかき谷ところゝ」に起こる災害を鎮めてほしいといふ願ひが見られる。霊元天皇や後鳥羽上皇の史料もほぼ同じで、少なくとも鎌倉時代の初頭、あるいは平安時代から同じ願意がこめられてゐたと考へられる。つまり大嘗祭にこめられる祈りとは、五穀の豊積と国土に起こる災害の予防であり、民を代表して、あるいは国民のために天皇が奉仕されるといふことといえるだらう。

また、櫻町天皇の笏紙には「神供次第」も詳しく書かれてをり、それも忘れてはいけない重要なことと捉へられてゐることがわかる。その中には、「平て」といふ柏の葉で作った皿に、天皇みづからが箸を執って、「よね」(米)・「あは」(栗)や黒酒・白酒、海産物の「なまもの」、干した魚などの「からもの」、海藻の汁物である「めのしる」、そして鮑や果物などを盛り付けることなどが書かれてゐる。現在の新嘗祭の夕(よひ)の儀・暁の儀もさうだが、大嘗祭の悠紀殿の儀・主基殿の儀では、天皇が箸でおこなふ作法が五百回以上づつあり、二回の神事で千回を超える。

また、とくに注目すべきは、供進ののちの御直会で、天皇が頭を下げて「称唯(ゐしょう)」することである。「称唯」とは、序列の下の者が「をう」と応答する作法だ。大嘗祭では天皇が直会にあたり、神に対して頭を下げ、「称唯」したのちに御自身も米・粟・白酒・黒酒を食される。現在の神社祭式では、直会は祭典終了後に別席を設けられてゐるが、古代では基本的に直会も儀式の一部に組み込まれてゐた。つまり大嘗祭の本義とは、神饌の供進と御直会なのであり、日本列島の五穀豊穣と災害予防を祈ることなのである。

《米と粟の祭り》

顧みれば、『日本書紀』などの神話で天孫・邇邇芸命は水田で育てられた稲穂をいただいて降臨され、地上に水田稲作が伝へられた。歴史的にも、古代の税である租・庸・調のうち、地方税である租は「正税」「神税」ともいひ、神社の祝儀などにも用ゐられ、稲で納めるのが基本だった。

一方で、稲の生育は天候に左右されるため、古代ではどうしても準備できない場合には粟で納めても良かった。また不作に備へ、「義倉(ぎそう)」といふ穀物倉に粟を納めてもゐた。

あまり指摘されないが、神話でも粟や稗などを陸田で作ってゐることが描かれてゐる。粟はおいしくはないが腹持ちのする食べ物で、飢饉対策には最も適してゐるといへる。古代の人々が生きていく場合、稲が大事なのはもちろんだが、粟を以て代用してきたことにも目を向ける必要があらう。

現在、天皇陛下には御所で稲だけでなく栗も育てられてゐるといふ。新嘗祭にも大嘗祭にも、稲と粟が用ゐられることは、古代から一貫してゐる。天皇が大嘗祭で、稲とともに粟も食されるのは、「おほみたから」である国民が、稲だけでなく、粟も食べていかないと生きていけなかったからではないかと考える。ゆゑに、稲の祭りとともに、今では食べてゐる人はほとんどゐなくても粟の祭りがおこなはれてゐるのである。

《祭祀の本義とは》

宮中祭祀は、一時期中断があるものの、復興の努力が重ねられるなどして、現在まで繋がってきた。とくに大嘗祭はある意味で、文献上初出の天武天皇・持統天皇の時の儀式がそのまま残されてゐるといへる。稲の祭り、そして粟の祭り、また神饌の供進と神との共食。それらが秘儀として、長い間、継承されてきた。

そのこと自体が重要であるといえよう。大嘗祭における神饌の重要性、稲、そして粟の存在。神道を学ぶ者、神道に関はる者、とくに神職にとって、日々の祭祀の本義を考へるにあたっての最も根幹の部分と通底するやうに思ふ。(編輯部本稿は平成30年10月11日に開催された東京都神社庁と都神道青年会の教養講座を編輯部で要約したものです)」


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