投稿日:2022年5月11日(水)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】三碧木星:令和4年6月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…北東 下降気味で何かにつけて一進一退を繰り返しやすい。身辺に明るさはあっても内実に暗く、多忙なばかりで空転に終わることが多くなりそうなので注意を。じっくりゆっくり慎重に」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年2月21日号掲載のコラム「こもれび~ユーモアと明朗~」をご紹介致します。
【こもれび~ユーモアと明朗~】
「二年続いたこの連載も私の執筆は今回が最終回となる。せっかくなので、最後は自身の研究のお噺を一席。
美濃とその周辺には、大碓命(おおうすのみこと)を御祭神とする神社がいくつか鎮座してゐる。
命を御存じないかたもをられるだらうが、『古事記』『日本書紀』に、あの倭建命(日本武尊)の双子の兄弟として登場する王族である。
倭建命が東征・西征に奔走する英雄として描かれるのに対し、記紀の大碓命はちょっと意気地がない。
父の景行天皇から蝦夷征討を命じられると、懼れをなして叢に逃亡してしまふ。
『古事記』に至っては、天皇との朝食会に出ないといふだけの理由で倭建命に殺されたと書いてゐる。
気の毒なほど影の薄い存在ではないか。
しかし、これらの話は、英雄として語り継がれる弟を引き立てるために創作されたものらしい。どうも史実とは思へない。
ならば、大碓命に関する伝承はすべてが作り話だらうか。私は、さうは思はない。
『日本書紀』では、出征を回避した大碓命は、景行天皇によって美濃に分封されたとある。
このことは『古事記』にはみえないが、同書にも、命が美濃の女性と結婚し、その子孫は美濃の豪族として栄えたことが記されてゐる。
どうやら、命は美濃と関係の深い人物だったやうだ。これが事実なら、大碓命は弱虫皇子ではなく、実際は、美濃制圧に力を尽くした王族だったのではなかったか――そんな疑問が頭を過る。
畿内から美濃に進むにはいくつかのルートがあるが、その一つが、関ヶ原を抜けて不破地方に入る進路。
現在の岐阜県大垣市とその周辺だが、ここには古墳時代前期の畿内型前方後円墳が点在してゐる。
なかでも、四世紀末に築造されたとみられる昼飯(ひるい)大塚古墳は有名である。
墳丘長が約150メートルといふ、美濃地方随一の規模はいふに及ばず、前方部・後円部ともに葺石(ふきいし)と埴輪を備へた三段築成の規格がわれわれの注意を惹く。
墳丘を三段作るのは、天皇・皇后をはじめとする王族とその姻族にのみ許された特権。
だから、この古墳の被葬者(正確には、後円部の三つの埋葬施設のうち、メインの竪穴式石室の被葬者)は、大和から派遣され、この地に土着した王族だった可能性が大きい。
だとすると、大碓命の名で人々の記憶に残る人物は、昼飯大塚古墳の被葬者として有力な候補である。
景行天皇朝はおほよそ四世紀後半と推測されるので、古墳の築造年代とも矛盾しない。大碓命の実在性を否定する学説は、いまも根強いが、かうして考古学の成果とも符合するのだから、架空の人物として片付けるには無理がある。
ちなみに、東征の帰途、伊勢で亡くなったといふ倭建命の墓は、三重県亀山市にある能褒野(のぼの)王塚古墳とみてよいであらう。築造年代・規格の点で命の墓とみるに相応しく、地理的にも記紀の記述に適ってゐる。
――とまぁ、こんなことを考へてゐる昨今である。
この二年間は、降って湧いたコロナ禍に翻弄され、本紙の愛読者にとっても本当にたいへんな時期だったと思ふ。この艱難を乗り越えるのに必要なのは、気合とガッツだが、苦しいときでも忘れたくないのが、ユーモアと明朗。
その昔、夏目漱石が愛弟子の寺田寅彦に宛てた励ましの手紙にこんな一節がある。
蒲団を干してランプを明るくして長烟管でポンポンやれば天下は太平と御承知あるべし(『漱石全集』22巻、335頁)われわれも、この朗らかさ。
でいかうではありませんか。」
(荊木美行(いばらきよしゆき) 皇學館大学研究開発推進センター教授、同センター副センター長)