投稿日:2020年4月22日(水)
4月の異称シリーズ_「花名残月」(はななごりづき)。散ってしまった桜の花を名残惜しむ気持ちが表れていますね。日本人がどれだけ花が好きだったかがよくわかります…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙である『神社新報』令和2年1月1日号の掲載記事「日本書紀千三百年~共存する多様性のなかに~」をご紹介致します。
少し長文になりますが、最後までお読みいただければと存じます。
【日本書紀千三百年~共存する多様性のなかに~ 皇學館大學文学部国史学科教授 遠藤慶太】
「令和2年(2020)は養老4年(720)の『日本書紀』の完成から1300年を迎へる。
記念の年めるに、『日本書紀』に関連した企画に接する機会はきっと多いことだらう。
いまからちゃうど100年前の大正9年(1920)にも、日本書紀撰進1200年を記念して東京帝国大学や國學院大學で講演会・展覧会などが開催されてゐる(『撰進千二百年紀念日本書紀古本集影』、『昭和天皇実録』大正9年5月26日条)。
『日本書紀』は天地の開闢から持統天皇の譲位までを30巻に収録した歴史書で、当初は系図一巻も付属してゐた。日本の古代史では不可欠の歴史記録であり、古墳や宮都、神社や寺院については、『日本書紀』がどのやうに記してゐるかを無視して議論することはで|きない。
また神話から歴史へと展開する組立ては、中国の歴史書を手本としながらも、日本の側の特性に合はせた8世紀の創意といへる。神話にさかのぼって皇室と皇室の統治起源が語られてゐるからである。
そして『日本書紀』は完成した翌年、養老5年(722)から講義がおこなはれ、その後も講義(日本紀講)が続けられたことも憶えておきたい。
『日本書紀』は成立時点から一貫して日本の古典として最も重要な位置を占め続け、とくに中世以降の人々にとっては神道古典として新たな価値を見出されてきた。
数多く残る古写本を高精細の影印版でみれば、おびただしい書入れがあって、『日本書紀』を学んできた層の厚さが実感される。
つまり『日本書紀』を読み継いできた歩みそのものが、神道研究の歴史でもある。だから『日本書紀』を読むことは、日本人の本源を確かめることであり、さらには『日本書紀』を読み継いできた先人と対話をすることでもある。
ところで話はかはるのであるが、昨年秋に京都の金剛能楽堂で能《大蛇》(をろち)をみる機会があった。《大蛇》は素戔嗚尊(すさのをのみこと)と八岐大蛇(やまたのをろち)の神話を題材に、中世に作られた劇能である。これも『日本書紀』受容のありかたなのだ。
前場はワキの素戔嗚尊が唐冠(とうかん)で登場し、出雲への道行きが謡はれる。作りものの藁屋から引きまはしが外されると、手摩乳(てなづち)・脚摩乳(あしなづち)にはさまれて金剛流宗家のお孫さんが奇稲田姫(くしいなだひめ)として座ってゐてじつに可愛らしい。
後場はワキの素戔嗚尊と後シテの大蛇との切組(きりくみ)が続き、太鼓も入った囃子方が盛りあげる。緩急自在、心躍る舞台に身を乗り出して凝視してゐると、つひには退治された大蛇の尾から、新たな神剣があらはれた――神器である天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の顕現である。
この能《大蛇》は『日本書紀』を題材としてをり、中世の人々が思ひ描いた古典の理解、神話の世界が作品のなかに再現されてゐた。
たとへば前場で素戔嗚尊が登場する道行きは、新羅から出雲への経路で謡はれてゐる。能では異例であるが、これは『日本書紀』での素戔嗚尊の降臨を題材としたからである。・ただし『日本書紀』巻第一・神代上(第八段)は多くの異伝を共存させて読者に問ひかける。はたして素戔嗚尊はどこに降臨したのか。井上光貞氏の監訳による『日本書紀』の現代語訳(中公クラシックス)で挙げてみよう。
①さて素戔嗚尊は高天原より出雲国の簸(ひ)の川上に降り着かれた(正文)
②素戔嗚尊は高天原から出雲の国の簸の川上に降り着かれた(一書第一)
③この時、素戔嗚尊は安芸国の可愛(え)の川上に下られた(一書第二)
④尊が大蛇を斬られた地は出雲の簸の川上の山である(一書第三)
⑤「そこで素戔嗚尊は、その子の五十猛神(いそたける)をひきゐて新羅国に天降られて曾尸茂梨(そしもり)とい所にをられた。そして揚言(ことあげ)されて、「おれはこの地(くに)にはゐたくない」と仰せられて、とうとう埴土(はにつち)で舟を作り、その舟にのって東に航海されて、出雲国の簸の川上に在る鳥上峯(とりかみのたけ)に到着された」(一書第四)
⑥この後、素戔嗚尊は熊成峯(くまなりたけ)にましまして最後に根国に入られた(一書第五)
ここにある多様な伝承そのものが、素戔嗚尊の性格や出雲の地域性を考へるときに大事な材料となる。
一般に知られてるるのは、高天原を逐はれた素戔嗚尊が出雲国の簸の川(現在の斐伊川)の上流に降り立ち、大蛇を退治する伝承だらう。ところが『日本書紀』には素戔嗚尊は朝鮮半島に降臨したのだとする伝承も伝へられてゐた(⑤⑥)。古代の出雲が日本海を隔てて朝鮮半島と向き合ひ、身近な交流があったからこそ、神話のなかにも対外意識が含まれてゐるのである。
『日本書紀』を創造の源泉とした中世の能《大蛇》では、素戔嗚尊は新羅より「はにふの小舟」に乗って出雲へ着く。
そもそも『日本書紀』はどうしてこのやうに複数の神話伝承を併記するのだらうか。そこに『古事記』とは異なる『日本書紀』の真価があると思ふのである。
古い時代の記録や伝承といへば、さまざまな異説が存在したことだらう。複数の伝承があるのは、その伝承を提供した者が複数ゐたことに他ならない。おそらくは天武天皇10年(681)の詔によって開始された歴史書の編纂事業のなかで、奈良時代の朝廷はそれら歴史書の材料となるものを吟味したうへで、それでも統一することはしなかった。
ここで大切なことは、書物の「編纂」は「著述」とは異なるといふことである。「編纂」とは、さまざまにある材料をまとめてひとつの書物をつくることである。
『日本書紀』はもとになった材料にあまり手を加へることなく、時には異説を客観的に列挙してゐる。
皇室が日本を統治する起源について最も明確に記した「天壌無窮の神勅」が、『日本書紀』「第二の一書第一に掲載されてゐることは、“『日本書紀』編纂委員会”の姿勢がよくあらはれてゐる。さかしらを加へず、素材を尊重する態度である。江戸時代の朱子学者・神道学者であった山崎闇斎は、『日本書紀』は「万代の達書」なのだと賛辞を惜しまない。その理由は、複数の伝承を資料として尊重し、敢へて取捨せずに後代に伝へたことを高く評価するからである。『日本書紀』を読み継いできた先人の高見、敬服せずにはゐられない。
本年は記念の年であるから、趣向を凝らした『日本書紀』に関する事業が企画されてゐることだらう(本記事も、である)。しかしそれはそれ、とりどりの企画はあくまで入口に過ぎない。本当はそれをきっかけにしてさらに一歩、『日本書紀』の原文にふれ、古典の深みに踏み入ってみたい。さらにいへば、日本書紀撰進1300年の諸企画は、これまでの研究や歴史的背景を踏まへ、次の100年を展望できることが望ましい。
ほんとうにいい機会なので、わたしは晴れやかな記念事業からはすこし離れて、日本最初の史書『日本書紀』をもういちど、こころしづかに学び直してみたいと思ふ。」
【今日のフジ】
▽弁慶藤
▽義経藤