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【神社新報記事】鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学 命を守る築山 日和山と命山~

投稿日:2022年5月29日(日)


今日5月29日は「こんにゃくの日」。全国こんにゃく協同組合連合会が平成元(1989)年に制定されました。種芋の植えつけが5月に行われることと、五(こ)二(に)九(く)で「こんにゃく」の語呂合せからこの日と定められたそうです。こんにゃくを賽の目に切って、ゴマ油とめんつゆでいためたのが最高のおつまみだと思っています…権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年2月14日号掲載のコラム「鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学~」をご紹介致します。

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神社新報

【鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学 命を守る築山 日和山と命山~】

「東日本大震災の直後から随所で見られた、伝統的な宗教的自然景観(主に鎮守の森と神社)が被災を免れて、何もなくなった集落の中に無傷で残ってゐる光景。これが何を意味するのかを、その経過を観察し続けることで探ってきた。

災害後、残った神社とコミュニティ復興の推移を見ながら、神社に付随したソフトウェアとしての祭や民俗芸能、行事が大きな力になっていったことはよく知られることとなった。さらに本稿では江戸時代に遠州地方で築かれた命山、江戸期に海運の安全を見守るため全国の港に造られた日和山のなかで、東日本大震災に関はった山に注目し、報告する。

<遠州灘沿ひに点在 命山に注目をして>

静岡県袋井市旧浅羽町には、ヤマ(山)、ツカヤ(塚屋)、ツキヤマ(築山)、タカ(高)、イノチヤマ(命山)と呼ばれる微高地がある。『浅羽町史民俗編』によれば、ツカヤは、松原にあるやうな屋敷にヤマを取り込み、なほその上に地の神を祀って生活の安泰を願った屋敷の付設と考へられる。さらに土盛りをして、水害の際にこのツカヤに上って避難生活を送った。このやうなツカヤの発展したものとして、砂山を共同でさらに高くして稲荷などを祀ったものが、大野や中新田に見られる命山であると考へられる。なほ、『浅羽町史民俗編』によれば、命山は、延宝8年(1680)の高潮を契機に横須賀藩の命によって築かれたとされる。

<中新田命山>

静岡県袋井市(旧磐田郡浅羽町)中新田にある小高い丘。命山と呼ばれ、県の文化財にも指定されるその山の由緒を記した看板が山の入り口に建てられてゐる。その案内板には、「かつての中新田地区は、集落の東側や北側にかけて入江が深く入り込み、高潮の被害を受けやすい地形でした。延宝8年(1680)八月六日に東海地方を襲った台風は、江戸時代最大と言われるほど多くの被害をもたらしました。(略)この村では老若男女300人が死亡した」と、被害のすさまじさが記録されてゐる。『横須賀根元歴代明鑑』によると、中新田の命山(助け山とも記される)は延宝の高潮災害の後に造られ、その後の高潮では村人全員がこの山に登り、船で対岸の横須賀から食料を調達したり、潮が引くのを待ったりしたととなどが詳しく記されてゐる。

<大野命山>

同じく県の文化財に指定される同市大野の命山も案内板の説明によれば、中新田命山と同時期に造られたものと考へられるとし、「形状大野の命山は、周りの粘土質の土を盛り上げて築かれました。西側が削られていますが、形状は二段築成の小判型で、基底部が東西24メートル、南北38メートル。上段部は東西17メートル、南北27メートルの長方形。高さ、7メートルの規模です。中新田の命山は砂質の土を盛り上げて築かれ、形態は方形というように同じ命山でも両者は異なっています」とある。

<全国に約八十カ所 日和山は造られて>

江戸時代の海運業の発展に伴って整備された風待ちの港。港を見下ろす小高い山に、観天望気のため、日和を見るために造られた山である。共通して日和山と呼ばれた。

作ったのは、船主である廻船問屋たちであることが各地に残る方位石の刻字からわかる。全国に約八十カ所の日和山があり、江戸時代千石船の出入航の日和を見る場所や航路目標の重要な山であった。南波松太郎氏によれば(『船・地図・日和山』法政大学出版局、昭和59年刊、577頁)、日和山には左記の五つの主役目と三つの副役目とがあったといふ。

①主役目=日和を見ること。出船を見送ること。入船を望見すること。

入船との連絡をとること。入船の目印となること。

②副役目=遊覧場所となること。商人の商況判断の資料を得ること。唐船見張り番所の設置と砲台の築造。もちろん、一つの日和山でこれらすべてを兼ね備へてゐるわけではないが、絶対の共通条件は日和を見ることであり、海の様子、空の様子、観天望気を目的としてゐた。この日和山と神社が津波から人々の命を救った例が宮城県石巻市の日和山であった。

<石巻市の日和山>

石巻市日和が丘では、東日本大震災の津波から、その日和山が多くの人命を救ってゐる。

石巻市は、平成23年3月11日の東日本大震災により、死者3277人、関連死276人、行方不明417人(令和3年10月末日現在・石巻市ウェブサイトによる)もの犠牲者が出てしまった。石巻市の最も津波被害が大きかった北上川河口石巻湾一帯を一望できる日和山。山頂の丘に鎮座するのが、式内社としての古い由緒を誇る鹿島御児神社(日和山神社)である。震災当日、近隣住民の避難場所として多くの命が救はれた場所でもあった。

<名取市の日和山>

名取市閑上に小高い丘が造られてゐる。これを日和山と呼び、山頂には忠魂碑と湊神社から遷座された富主姫神社の社殿があったが、東日本大震災の大津波により、すべて流失してしまった。

日和山参道の傍らにあった説明板にはかうある。「日和山は、閑上漁港への船の出入りを見るためと、漁師が気象、海上の様子などを見るため、1920年(大正9年)に築造された山です。標高6.3メートルの山頂には、富主姫神社の社殿などがあり、地域の人々が集う憩いの広場として親しまれてきましたが、2012年(平成23年)3月11日に発災した東日本大震災による大津波にのみ込まれ社殿が流失、石碑は倒壊してしまいました。山頂に残った木の幹に大津波の爪あとが残っていたととから津波は山頂から2.1メートルの高さまで水位が達したことが推定されます。震災後の2013年(平成25年)5月に現在の社殿が再建され、日和山には多くの人が訪れるようになり、鎮魂の場所としてまた、名取市全体の復興のシンボルとして重要な場所の一つになっています」。

この日和山の築造は新しく、大正9年在郷軍人分会の発起による人々の勤労奉仕で二層に造成された。日和山築造当時の写真と見比べると大震災直前の日和山は基壇部分が埋まって一層になってゐたことがわかる。現在は大震災犠牲者の鎮魂の場となってゐる。

<現代における命山 各地で造られ始め>

大津波から住民の命を守った日和山、住民の命を高潮・津波から守るために築かれた命山、災害から命を守る伝統的なシステムがあったこと、また、現代にも活かすことのできる施設との考へ方と認識が広がり、遠州灘沿ひの地域、仙台平野はじめ日本各地に、現代の命山や人口の丘が造られ始めてゐる。」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。