投稿日:2017年11月26日(日)
今日11月26日(日)は「いい風呂の日」。「いい(11)ふろ(26)」の語呂合せとして、日本浴用剤工業会が制定しました。
偶には大きいお風呂に浸かりたい…権禰宜の遠藤です。
さて、伊勢神宮崇敬会発行の『みもすそ』より、コラム「神宮摂末社の歴史」を御紹介致します。
【神宮摂末社の歴史 その三 ~大水神社~】
大水神社は『皇太神宮儀式帳』によると、津長神社同様倭姫命が祝い定められたお社であり、儀式帳と『延喜太神宮式』には「大水社」、『延喜神名式』には「大水神社」 で登載されています。鎌倉時代撰の『伊勢二所太神宮神名秘書』に「宇治郷に在り」と 記載されていますので、もともと現在地に鎮座していたと考えられます。
『氏経卿神事記』文明十四年(1482)正月十五日条に本社で御竈薪神事に祝部も奉仕している記録が見られることから、室町中期まではお祀りされていたことがわかります。
その後何時か廃絶して、寛文三年(663)に大宮司河辺精長(かわべきよなが)が旧地と思われる波多村の西、山際に再興(『摂社再興記』)致しました。儀式帳に御祭神は「大山罪乃御祖命」と明記されていますが、中川経雅(なかがわつねただ)は「罪は祇と同訓によりてかり用ゐたり」「大年御祖といふに同じく、大山祇御祖ともいふなり」と明言しています。
経雅は「当社は宇治郷宇治今在家町の西、畠町の西の山にあり。津長大水社の南に当れり」(『大神宮儀式解』)と述べ、今の世(江戸後期)は津長と大水との間は半町ばかり(30間・約55メートル)隔たっているが、古くは両社の社地は続いていて、四至(みやのめぐり)も津長と同 じであったと言及しています。この説は薗田守良も支持(『神宮典略』)しています。
しかし御巫清直(みかんなぎきよなお)は「津長ト大水トハ渓間ヲ隔テ連続スへキ地形ニアラス」と否定しており、
現在の響土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)の向かって左手に津長谷があることから、かつて五十鈴川の支流津長川が流れていたことを鑑みると、清直の説が正しいと思われます。