投稿日:2018年3月23日(金)
書き溜めていた記事が古くなってしまうので、集中連載(その2)です!…権禰宜の遠藤です。
さて、伊勢神宮崇敬会発行の『みもすそ』より、「伊勢談草 伊勢の神宮と朝熊山」を御紹介致します。
【織田信長の朝熊岳まいり】 伊勢郷土会副会長 石井昭郎
「戦国武将、織田信長が霊峰朝熊山に参詣したのは永禄十二年(一五六九)十月のことでした。
『信長公記』によると十月五日、山田の御師(おんし)堤源介(つつみげんすけ)方へ寄宿します。
本来ならば、信長の御師上部(うわべ)大夫邸であったはず。
しかし上部は当時どのようなわけか衰退し、堤大夫の門内に居住したため、堤大夫が接待に当たったようです。
翌日、信長一行は外宮・内宮を参拝し、朝熊山金剛證寺にも参詣して翌七日、帰途についています。
永禄十三年(改元して元亀元年) 六月、織田信長・徳川家康の連合軍は戦国大名、浅井長政・朝倉義景の軍を近江の姉川流域で打ち破りました。
これが 有名な「姉川の戦」です。
近年、浅井家三代の祈願寺であった湖北の名刹、鶏足寺の別院法華寺三珠院の僧侶が朝熊山に登り、求聞持法(ぐもんじほう)の修行をしていたことを知りました。
それは浅井長政の年号を欠いた書状で、僧侶が無事修行を終え、長政への祈祷済み札や土産を持参したことに対する礼状でした。
長政は天正元年(一五七三)、信長に攻められ自害して浅井氏は滅亡します。
信長の参詣、長政の祈願寺僧の修行結願を考え合わせると、朝熊山が戦国武将の運命を左右した一面がうかがわれます。」