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伊勢神宮崇敬会 発行【みもすそ】 神宮摂末社の歴史 その六~宇治山田神社と旧参宮街道(後編)

投稿日:2018年6月26日(火)


昭和62年6月26日に岡山県の湯原温泉が制定。今日は「ろ(6)てん(・)ぶ(2)ろ(6)」という事で「露天風呂の日」権禰宜の新久田です。

さて、伊勢神宮崇敬会発行の『みもすそ』86号(平成30年春)より、神宮摂末社の歴史その六~宇治山田神社と旧参宮街道(後編)を御紹介致します。

みもすそ86 表紙

みもすそ

【神宮摂末社の歴史 その六】~宇治山田神社と旧参宮街道(後編)~
「当社が寛文年中の再興から漏れた理由として、中川経雅は『大神宮儀式解』において「その比(ころ)は宇治山田社の別名を伊佐奈弥社と思ひ、その伊佐奈弥社は月読宮なる伊佐奈弥社と思ひ誤りしより、造建(たて)ざるにや」と考証しています。また近世の頃は湯田神社を字体の似た湯田神社の「由多」と読み、両社を同一視したことも経雅は挙げています。大宮司河辺精長が当社を伊佐奈弥社と勘違いしたとは想像しがたいですが、近世初期には妄説が入り乱れて、再興が見合わされたことは充分考えられます。
当社がいつ類廃したのか詳らかでありませんが、室町時代の内宮長官(一禰宜)藤波氏経の日次記『氏経卿神事記』、永享13年(1441)2月12日条に「権長(ごんのおさ)榊ヲ進取之、于時(ときに)楊田社ノ祝(ほうり)給之彼社ニ奉納」と見られますので、15世紀中頃までは当社は存在していたと思われます。平安後期成立の荒木田氏の家伝書『太神宮諸雑事記』治暦4年(1068) 9月条に「祭使宮司等、宇治岡二到リテ、例乃浦田乃坂ニハ向ハズシテ、件ノ宇治岡乃東、字ハ楊田片岸ト云フ道に懸リテ、井面ト云フ所ヲ徹テ川上ニ参宮セリ(原漢文)」とあります。 御巫清直によれば、狭義の意味で宇治岡はかつての中之地蔵町(現古市(ふるいち)街道中之町近辺) 周辺を指すといいます(『二宮官社沿革考』)。
往古は、宇治岡から枕返(まくらがえし)(『神都名勝誌』に「陽田の片岸の邊」とある。現在の中村町のつづれ折の道)に至る道を「楊田片岸」、当社南の五十鈴川筋の道で、現在の御側橋(おそばばし)近辺を井面(いのも)と称し、朝廷から差遣された勅使や宮司が内宮へ参向する行程の一つ(浦田坂から 岡田中之切(なかのきり)を経て内宮に至る道程が官道)であったことがわかります。」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。