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伊勢神宮崇敬会 神宮摂末社の歴史5 宇治山田神社(中編)

投稿日:2018年3月20日(火)


今日は一日中、雨でした。久しぶりに御朱印を求める方がいらっしゃいませんでした。権禰宜の新久田です。

さて、伊勢神宮崇敬会発行の『みもすそ』より、「伊勢談草 伊勢の神宮と朝熊山」を御紹介致します。

みもすそ85 表紙

みもすそ 宇治山田神社

【神宮摂末社の歴史その五 皇大神宫摂社 宇治山田神社(中編)
『皇太神宮儀式帳』によれば、宇治山田神社の御祭神は大水神(おおみなかみ)の御子・山田姫命(やまだひめのみこと)で、内親王(倭姫命)の御代に奉祀されたといいます。そして儀式帳は「正殿一宇、御垣二重、坐地 二段三百歩」とし、その四至は「東道、南宇治大川、西沢并畠、北大道」と伝えています。
南の宇治大川は五十鈴川のことです。井面忠仲(いのもただなか)が建久三年(一一九二)に編集した『皇太神宮年中行事」二月八王子祭条に「世木楊田(せぎようだ)ヲ経テ月読宮鳥居ノ前ヨリ下馬、彼神社ニ参」とあります。よって北の大道とは、月読宮前から当社を通過し内宮に繋がる古代の参宮街道のことで、当社の北に位置していたことを意味します。中・近世を通じて当社地は不詳となっていましたが、江戸後期の内宮禰宜中川経雅が纏めた『大神宮儀式解』には「今の中村火焼(ひだき)の里の東辺、毎年二月十二日禰宜参りて酒肴に預る地あり。そこに石畳と森あり。此処にや」と考証しています。
その森を「上森(うえもり)」と称し、また「興玉森(おきたまのもり)」とも呼ばれていました。これが現鎮座地に相当します。
加藤忠告は『宮川夜話草』(宝暦十一年《一七六一》)で、興玉森は猿田彦大神の旧地と記します。『皇太神宮年中行事』四月氏神祭条に「宇治氏ハ字上社ニテ祭」とあり、『元禄勘文』 は「興玉ノ森、中村ノ西ニ在リ、今ノ俗上ノ森ト云フ、社無シ」とし、明治時代の神宮司庁編集の『神都名勝誌』には「宇治土公氏の祖神を祭れる所なり」と解説されています。なお同年中行事三月十二日条には「楊田神社」とあります。
神宮考証学の泰斗御巫清直(みかんなぎきよなお)も『二宮官社沿革考』において「楊田ハ山田ノ音訛」と述べていますので、古くから山田を「ようだ(やうだ)」と発音したことが理解できます。


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。