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源義経公没後830年鎮霊大祭 後編(鎮霊大祭斎行・静の舞奉奏)

投稿日:2019年6月16日(日)


今日は6月16日は「和菓子の日」です。嘉祥元(848)年6月16日、菓子類を神前に供え疫病退散を祈ったという「嘉祥菓子」の故事に由来するそうです。藤沢の和菓子屋さん、病魔退散の為にお供えをお待ちしております(笑)…権禰宜の遠藤です。

さて、白旗神社では毎年6月13日に、御祭神源義経公が奥州平泉衣川の館で自害されたのちに、御首が腰越に運ばれ首実検が行われた日とされていることにちなみ、境内鎮霊碑前にて鎮霊祭を執り行っております。

本年は特に源義経公没後830年という事で、「鎮霊大祭」として多くの氏子崇敬者の方々のご参列のもと斎行されました。

またそれに先立ち、当ブログでもご紹介しております「源義経公没後830年記念事業 聖地巡礼の旅」の帰着の日として、鎌倉市腰越の満福寺より白旗神社までを歩き、到着後すぐに御霊土の合祀と帰着の奉告祭を執り行いました。

此度の鎮霊大祭が滞りなく斎行されました事、また聖地巡礼の旅が滞りなく帰着の日を迎えられました事は、直接事業に携わっていただいた方々のご尽力はもとより、氏子・崇敬者の皆様のお蔭と厚く御礼申し上げます。

今回は後編。鎮霊大祭と静の舞の様子を写真と共にご紹介していきたいと思います。(前編はこちら

▽午後5時より鎮霊大祭斎行。境内特設祭場にて斎行されました。写真は祝詞奏上の様子。

830年鎮霊大祭 祝詞

▽宮司玉串拝礼。

830年鎮霊大祭 玉串

▽参列者玉串拝礼。写真は、この日日帰りで(!)遠く宮城県栗原市(義経公の胴塚を奉斎する栗駒山の地)よりお越しくださいました、菅原次男さん。

菅原さんは、20年前に栗駒山の胴塚から御霊土を持って徒歩で白旗神社まで来られた方で、白旗神社境内の鎮霊碑を建立するに当ってそのきっかけを作られた功労者であります。

栗駒山に「くりこま荘」という山荘を営んでおられます。(詳しくはこちら。食事がとても美味しかったです)

830年鎮霊大祭 参列者玉串

▽祭典終了後、午後6時よりいよいよ花柳流花人会(はなやぎりゅうはなとかい)御一門によります静の舞です。

演 者
花柳もしほ(後見:花柳花人)

演 奏
《三味線》
杵屋 邦寿 杵屋 嘉寿
《唄》
杵屋 三七郎
《鳴り物》
福原 貴三郎 福原 鶴之助 福原 百貴

静の舞

静の舞

静の舞

静の舞 静の舞

静の舞

静の舞 付物

▽舞の終了と共に、自然と拍手が沸き起こりました。

静の舞 観客

あたりが夕闇包まれる頃、無事に静の舞が義経公の御霊に奉られました。花柳流花人会の皆様、唄・三味線・鼓を演奏頂いた杵屋様・福原様、誠にありがとうございました。

当夜のことは10年の語り草になろうかと存じます。

~ 静の舞 ~
静御前は、京でも有名な白拍子(舞女)で舞・容姿ともに随一といわれる美女であった。
平家追討の総大将 源義経公に見初められ側室となるも、兄頼朝公の怒りをかった義経公と共に天王寺・吉野山と逃避行を続けるがやがて捕らわれてしまう。
文治2年(1186)4月8日鶴岡八幡宮の舞殿において、水干・緋袴・立烏帽子・細太刀・檜扇の装いで舞った静御前は、鎌倉の繁栄を願ったものではなく、愛する義経公を想い舞う。
吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
【吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい】
静や静 しずのおだ巻きくり返し 昔を今に なすよしもがな
【倭文(しず)の布を織る麻糸を丸くまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら】
吾妻鏡によれば「誠に社壇壮観、梁塵もほとほと動つべし、上下皆興感を催す」と絶賛している。しかしそれを観た頼朝公は激怒したが、妻の北条政子が取り成し事無きを得た。
その年の7月、義経公の子供を産むが頼朝公に取り上げられ由比ヶ浜に沈まされてしまう。
その後、静御前は京に戻り22歳で亡くなったという説があるが定かではない。

 


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。