投稿日:2024年9月9日(月)
白旗交差点付近、ローソンの向かいにOPENした長浜ラーメン 博多や に行ってみました。一杯750円と今となっては安価で、スープは期待通り店炊きでした。臭みのないクリーミーな味わいで、初心者向けの味でした。・・・権禰宜の宇多です。
さて、『むすひ 令和7年』より、トーク&エッセイの紹介です。
今回は文楽・人形遣いの吉田玉助さんです。
お役に所縁ある神社
文楽の演目で頂いたお役に縁のある神さまに、よくお参りにいきます。素戔嗚尊の八岐大蛇退治を描いた『日本振袖始』のときは、素戔嗚尊をまつる能勢の山辺神社(大阪府)へ。『忠臣蔵』では赤穂大石神社(兵庫県)へ。三輪明神にまつわる『妹背山』では、三輪の杉玉を文楽でも使うので、お参りとそうめんを食べに大神神社(奈良県)へ。九年前に再婚したカミさんと一緒です。彼女の影響で、地元・大阪の家の近くにある牧落の八幡大神宮へもよくお参りに行くようになりました。六年前の五代目玉助襲名もカミさんが「今襲名したほうがいい」と、背中を押してくれたんです。
師匠である父の教え
僕が生まれる一年前に亡くなった祖父の三代目玉助は、戦後を代表する人形遣いといわれ、僕は「生まれかわり」と言われることもあります。十四歳で父(吉田玉幸、歿後四代目玉助)に弟子入りをして文楽の世界へ入りました。
“鬼瓦”と呼ばれた厳しい父でしたが、ずっと「基本を大切に」と訓えてくれました。これは技術だけでなく、人の話を聴く耳を持つ姿勢につながります。「動くべきときに正しく動く。動かないときには決して動かない」と、ぶれない軸が大事だという訓えも、今でも大切にしています。
“セミの一生のよう”
セミは長い間、土の中にこもり、やっと地上に出たと思うと一生を終えます。人形遣いも同じ。両足を遣う「足遣い」、左手と小道具を使う「左遣い」にそれぞれ十年から十五年もの間、黒衣として経験を積み、ようやく頭と右手を遣う「主遣い」を任されて顔が出て輝き開花する。けれどその時にはすでに体力的に厳しい世代です。
主遣いとして輝くためには、父の訓えである基本が欠かせません。僕は五十代の”若造”で主役を務めていますが、本当にありがたい。人形には、人形遣いの人柄が現れます。どれだけ稽古を重ね努力をしてきたか。どれだけ人生経験を積み、先人たちの話を聴いてこられたか、なんです。
日頃の努力があって
いい役をやりたい願いは誰もがあります。でも神さまに初めから「くれ、くれ!」では決してない。日頃からしっかり積み重ねてきた努力と才能があってこそ、神さまが見守り、その力を最大限に引き伸ばしてくださるんです。
また神さまは、大きなチャンスを突如お与えになる(苦笑)。チャンスの扉は予期せぬときに急に現れます。「こんな難役、僕にできるはずがない」と思うことも。そんなときは、うちの”カミ”さんの「大丈夫、絶対大丈夫」の言葉を聞いて挑戦しています(笑)。そして、お役をしっかり務められているか、御神意にかなっているだろうか?と問うています。
受け継ぎ次の世代へ
伊勢の神宮には、小学校の修学旅行で行きました。二見の旅館に泊まり、赤福をお土産に買った思い出があります。
そこで二十年に一度、すべてを造り替える式年遷宮があると聞きました。「命を受け継ぎながら、常に新しく」は文楽も同じですね。僕もコラボ作品を作るなど新たな息吹に挑戦しています。受け継いでいくのは本当に大切。令和六年の夏、『女殺油地獄』の河内屋与兵衛役を頂戴しました。これも師匠や先輩のおかげです。
先人たちからの役を受け継ぎ、やがて今度は役を譲っていく。歴史の歯車の一つとして、きちんと次の世代へとバトンを渡したいと思います。そしてうちの”カミ”さんと一緒に、式年遷宮のおこなわれる神宮にもお参りしたいです。
吉田 玉助
よしだ・たますけ
昭和41年生まれ、大阪府出身。
文楽・人形遣い。
昭和五十五年に父・吉田玉幸に入門。吉田幸助と名乗り、翌年に朝日座で初舞台を踏む。立役の人形遣いとして活躍し、平成三十年に祖父の名跡を継いで五代目吉田玉助を襲名した。平成十九年「平成十八年度咲くやこの花賞」、二十三年「大阪文化祭賞奨励賞」、二十七年「第三十四回(平成二十六年度)国立劇場文楽賞文楽優秀賞」ほか、多数の受賞がある。