投稿日:2022年11月13日(日)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】五黄土星:12月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…東・南東・北西 慌ただしい師走となりそうです。たのまれごとが多く、肩の荷が重くなりますが、引き受けるときはよく考えてください。出来ないことははっきりと断る事。中途半端はケガの元」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年8月29日号掲載のコラム「杜に想ふ」をご紹介致します。
【杜に想ふ~日常の礼~】
「半年に一度の検診を終へて、病院を出た。すぐ前の通りを横断したところに根津神社(東京都文京区)の裏鳥居がある。それをくぐって脇にそれ、本殿を半周したかたちで正面に出た。参拝を終へて表の鳥居に向かはうとしたところで、中学生の小集団に出くはした。
病院の北方に中学校があるので、そこから帰る学徒たちであらう。神社の裏手から入って表に出る、その通路が通学路となってゐるのだ。他にも三々五々に連れ立って帰ってゐる。マスクを付けてゐるからでもあらうが、おしゃべりもほどほどに行儀よく歩いてゐる。だが、足を止めて本殿を拝していく者はゐない。本殿の脇から楼門へ斜めに歩いていくのだから、本殿の正面に回るのはほんの少しだけ余計に歩くことになる。まま、いたし方ないであらう。
表の鳥居をくぐったところで、女子学生が一人、後ろ向きに立ち止まり「おじぎ」をしした。会釈である。揖である。慣れた動作であった。隣にゐたもう一人の女子学生も、それを真似た。
声をかけてみたい、とも思った。が、彼女たちは小走りに仲間を追って去っていった。
私は、まづはその礼儀正しさを誉めてあげたい、と思ふ。誰を見習ってのことだらうか、それも尋ねてみたい、と思ふ。
ありきたりの言葉だが、「礼にはじまり、礼に終はる」。その元が武士道にはじまるとすれば、歴史的にはさほどに古いことではない。だが、以来、剣道にも柔道にも合気道にも、そして相撲にもそれが伝へられてきた。国際的にも、それが認知されてゐる分野もある。
問題は、さうした競技を離れたときにも、それができるかどうかだ。鳥居や山門をくぐるときも、さう。老師や教師に出くはしたときも、さう。それが身についてゐることが大事であることは、いふをまたない。それを、「自然(じねん)流」といった。そして、それを美しい型とした。
しかし、それがむつかしい。私は、大相撲のテレビ中継をよく見るが、それができる力士が案外に少ない。平常からの心掛けが肝要なのであらう。
私は、さうしたことを、とくに若い人たちと話してみたい、と思ふ。最近、とくにさう思ふ。時代も変はった。若者たちの思考も変はった。コロナ禍で、対面での応対も変はってきた。しかし、私たちは日本人なのである。日本人の「美徳」といふ文化をないがしろにはできまい、と思ふのだ。
そして、現在の若者たちのなかには、案外に素直な感性をもってゐる人も少なからずゐるのだ。さう、ちゃうど外国人が日本文化に接するがごとくの日本人の若者があるのだ。私は、彼らに期待したい。といふか、励ましていきたい。
また、時どきに根津神社を訪ねて、やがて彼女たちとも顔見知りになりたい、と思ったことであった。」