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【神社新報記事 「全国護國神社會連載② わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】京都霊山護国神社
投稿日:2024年8月21日(水)
スーパーからお米が消えました。先の地震注意報による買いだめの影響でしょうか。既に日本の各地で初穂の収穫が開始されているそうですがまだ店頭には並んでおりません。実家の神社に撤饌として大量の米が余っているようなので、久々に送ってもらおうと企てている権禰宜の宇多です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和6年8月19日号掲載の連載記事、「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、来年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~】
<心のどこかでずっと想ふ父 京都霊山護国神社宮司 木村隆比古>
「昭和十三年、当時二十六歳で工兵として作戦に従軍した廣田正三郎命。十五年、支那方面から一度復員すると、前年に産まれたばかりの長女・正子三を連れて氏神さまへとたびたび参拝に行き、「鳥居に石が上手く乗ると運がいい」と父娘で石を投げるなど、温かな日々を過ごしたといひます。
そんな家族の時間も長くは続かず、正三郎命は昭和十七年に再び出征。沖縄の地へと発ちます。その後、次女・清子さんが誕生。無事の出産を知らせる手紙を出すも返信はなく、昭和二十年九月、戦死公報が家族のもとに届きました。家族四人で暮らしたいといふささやかな願ひは、無残にも打ち砕かれたのです。
正子さんはそのときまだ六歳。幼かった姉妹は、母から父親の戦死を告げられ、出征前に書き残された遺書の内容を伝へられましたが、内容が理解できなかったさうです。そのなかで、たったひとつ記憶に残ったのが「妹とお母さんを頼みます」といふ言葉だったといひます。
一家の大黒柱を失った家族は、母親が仕事に出ることとなり、幼い姉妹は本家の親戚筋に預けられ一日を過ごすやうに。昼食はおやつとへいようできるさつま芋や蒸しパンが弁当箱に詰められ、水筒と着替への服が収められたリュックサックを持たされました。
仕事に向かふ母親の後を追ひかけようとする清子さん。それをなだめる正子さん。清子さんが泣き止むのを待ってから本家に向かふことがたびたびあったといひます。のちに清子さんから「生みの親はお母さん、育ての親はお姉さんと言はれた」と、正子さんは嬉しさうに微笑んでをられました。
台風の際には、玄関や裏口の木戸、縁側の硝子戸に茣蓙や莚をあてがひ、その上から六つ割や、木の板を釘で打ち付けるなど重労働も。母娘にはとてもたいへんで、「こんな時、男手があればどんなに楽であったらう」と強く感じたさうです。
そんな母の苦労を見て育った正子さんは、高校時代に修学旅行も断念して家計を助け、苦労しつつも昭和三十七年春に京都女子大学初等教育学部を無事卒業。三十九年には小学校の教員として採用になり、平成九年に五十七歳で早期退職するまで、三十三年の教員生活を送りました。
当時、早期退職を決断したのは八十七歳と高齢になったお母さんと、父の戦死場所である沖縄本島摩文仁へ母娘で訪れたいと思ってゐたから。現地に着いたお母さんは涙を流しながら「ありがたう、本当にありがたう」と何度もおっしゃったといひます。戦後、親子三人の間では口にこそ出しませんでしたが、皆この時をずっと待ってゐたのでせう。正子さんは「お父さん、お母さんと清子と三人でやっとお参りすることができました。遅くなってごめんなさい」と手を合はされました。
遺族会の要職を歴任し、現在は当社の崇敬者総代も務めてくださってゐる正子さん。お母さんたちが次々と英霊のもとへ逝かれることを寂しく思ひつつも、「残された遺族が英霊の意思やお母さんたちの切ない思ひを受け継ぎ、英霊顕彰と恒久平和を次の世代へと語り継いでゆく」ことが自分に課せられた使命であると優しい笑顔で話されました。」
京都霊山護国神社 住所:京都府京都市東山区清閑寺霊山町1 御祭神:7万3千1柱 例祭:春(4/28)、秋(10/14)