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【神社新報記事 「全国護國神社會連載④ わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】徳島縣護國神社

投稿日:2024年9月29日(日)


「てぬぐい」皆さんはお持ちでしょうか?私はハンカチの代わりとして、また運動中のタオルとして使用しています。薄くてかさばらない上に、吸水性抜群なため重宝しています。もっと「てぬぐい」の良さを広めたい、権禰宜の宇多です。

 

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』の連載記事、「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。

全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、来年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。

当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

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「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~

〈雄々しく旅立った若き飛行兵 徳島縣護國神社宮司 坂田 敏郎〉

井花敏男之命は、徳島県宍喰町(現・海部郡海陽町)の御出身で九人兄弟の長男として昭和三年二月四日に生まれました。戦時下には幼少でありながら飛行兵になることを夢見て、十五歳で入隊。訓練を重ね特別攻撃隊として出撃し、十七歳二カ月で戦死されました。

御遺族によると、陸軍沖縄戦特攻隊員戦歿者の中でも最年少であったと、知覧特攻平和会館関係者から伝へられたとのことです。

「井花敏男は戦争真っ只中だった頃、大空をみて『僕は飛行兵になるんだ』と母に言ってみたと聞きました。母は『そんな危ないことはせられん』と言ってゐたやうです」とは、敏男之命の弟・昭文氏。「飛行兵になりたい」と願ひ、裏山の観音堂に願をかけ、希望を持って試験を受けたとひます。昭文氏は「採用通知を受け取った兄は飛び上がったさうです」と語ってました。

昭和十八年秋、敏男之命は十五歳で家を出て大刀洗陸軍飛行学校・甘木生徒隊に入隊。当時、入隊した少年飛行兵は二千人にも及んだといひます。命は昭和十九年七月に卒業し、やがて朝鮮半島の京城に渡り練習機での訓練に励みました。「時々よこす便りに妹や弟を懐かしむ言葉もありました」といふ昭文氏。少年飛行兵の同期でハルピンまで行動を共にして沖本守夫氏は「井花敏男君は天真爛漫で快活であった」と、その性格について話してたといひ、その話をする昭文氏は「厳しい軍隊生活のなかでも兄がほがらかに過ごしてゐた様子が偲ばれます」と笑ってをられました。

昭和二十年二月には、特別攻撃隊に志願。やがて敏男之命は第七降魔隊に抜選されます。

「もう二度とお目にかかれないと思ひます 国のために死ぬのだから悲しまないで下さい 近所の皆様によろしくお伝へ下さい」。葉書には、さう短く綴られてゐました。「父母妹弟たちに会へぬまま大空に散華した兄の胸の内はいかばかりであったのかと思ひます」。昭文氏は、さう静かに話されました。第二十六教育飛行隊の船橋卓次教官から命の父に手紙が届いたのは散華されたあとのこと。「教へ子の中で弟のやうに思ってゐた敏男君が涙一つ見せることなくををしく元気に笑って征きました。前夜は枕を並べて心行くまで語り合ひました。最後に握手をして機上の人となりましたが敏男君の手のあたたかさが今も私の掌に残ってゐます」。

この手紙を読んだ命の御尊父は、また昭文氏は、どのやうな気持ちになったのでせうか。想像することしかできませんが、同じ子を持つ親として、実にさまざまな感情がせめぎ合ってゐます。

 

徳島縣護國神社

住所 徳島市雑賀町東開二一-一

電話 〇八八-六六九-三〇九〇

祭神 徳島県にゆかりのある御英霊 三万四千三百六十九柱

例祭 十一月二日」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。