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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】靜岡縣護國神社
投稿日:2025年2月28日(金)
今年は寒波が襲来し、梅の開花が例年よりかなり遅れているようです。神奈川県内では曾我梅林の梅まつりの期間が延長されました。
よって次に見頃を迎える河津桜も開花が遅れ、静岡県の河津町で開催される河津桜まつりも同様に期間が延長されるそうです。
今回は河津町のある静岡県の護國神社からの寄稿です。靜岡縣護國神社の境内にも河津桜が植わっており、これから御英霊を楽しませることでしょう・・・権禰宜の宇多です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和6年11月25日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
戦歿者遺族の心の継承
靜岡縣護國神社宮司 芦原 久雄
「私の家は、大東亜戦争の戦歿者遺族です。私の祖父には早世した長男以外に子供はゐませんでした。そこで、縁戚関係から養子に入った方が当社の御祭神でもある芦原七五三男命です。
七五三男命は大正四年生まれで、当時の准教員養成学校を卒業後、昭和八年五月に志願兵として横須賀海兵団に入団。機関科出身で掃海隊や駆逐隊に勤務なさってゐました。上部機関である工機学校高等科を卒業されるまでに技能優秀賞を三度受賞されたさうです。大東亜戦争では駆逐艦「峯雲」に乗艦され、スラバヤ沖海戦では感状を賜ったといひます。
戦況が不利になるなか、ソロモン群島におけるコロンバンガラ島輸送作戦中の昭和十八年三月五日夜半、敵の夜間奇襲攻撃により撃沈し戦歿されました。七五三男命のもので残されたものは、写真風の絵が一枚と弁当箱一つで他には何もありませんでした。先述の通り祖父には他に子供がをりませんでしたので、祖父の嘆きが如何許りであったかは想像してもしきれません。
祖父は、昭和十七年の当社移転遷座の諸祭儀に御奉仕致してをりましたので、もともと英霊奉慰については充分な気持ちで臨んでゐたと思ひます。七五三男命戦歿以降は、遺族神職としてそれまで以上に戦歿者に心を致し、昭和四十年の移転遷座三十周年記念大祭(例祭)まで助勤神職として勤続させていただいたやうです。あはせて地元及び県遺族会の役員として英霊顕彰また遺族援護に微力ながら力を尽くしました。
私は、七五三男命戦歿後に養子となった父母のもとに育ち、家を取るべき立場にもなかったので、祖父の戦歿者への想ひと強さは分かりませんでした。それゆゑ、自分の進む道は別のことを考へてゐました。しかしながら、大学進学の選択肢の一つでしかなかった國學院大學へ進学。私学教員に就職する予定が、急遽当社への奉職となりました。これは、祖父の戦歿者への想ひと七五三男命の思召しであったのかと今は考へてゐます。
奉職後、四十年以上が経ち、英霊顕彰の誠を尽くすべく日々過ごしてをります。私は、このやうな御神縁がありましたから、神職としても戦歿者遺族としても祖父の心を継承できてゐると思ひます。
戦歿者遺族が減少してゐるとされてゐる今、改めて御遺族世帯の掘り起こしを進め、一柱でも多く英霊の心を遺族の方々に繋げる奉仕を続けてゆきたいと思ひます。
靜岡縣護國神社
住所 静岡市葵区柚木三六六
電話 〇五四-二六一-〇四三五
祭神 静岡県出身者並びに縁故ある戦歿軍人、軍属の英霊七万六千余柱
例祭 十月二十二・二十三日」