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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】群馬縣護國神社
投稿日:2025年3月23日(日)
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さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年1月20日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
赤子の頃に出会った父君への思慕
群馬縣護國神社宮司 石川 正明
「青木進命は大正三年九月十九日、現在の群馬県甘楽郡下仁田町に青木家の次男として生まれました。父君が養蚕の指導員をしてゐた関係で、青木家は利根郡新治村(現・みなかみ町)へ移転します。
高等小学校を卒業したのちには、新治村国民健康組合に就職しました。その後、二十歳になり兵隊検査で甲種合格。高崎市内に駐屯の第五十一師団第百十五連隊に入隊となりました。新兵の訓練に励まれ、成績優秀であり、射撃と銃剣術の賞状を何枚も授与されてゐます。
その後、所属部隊は中国の北支戦線に進み、国民党の蒋介石軍との戦闘となりました。決死の白襷をかけ、銃剣を持ち匍匐前進にて突撃しますが、相手の銃弾が膝から尻を貫通します。それでも全身しましたが、二発目が膝から入り股間に残ったため、船で東京の陸軍病院に
転送され手術することに。摘出したのは鉛の玉(ラムラム弾)で長期入院となりました。
この療養中に慰問に訪れた女性と縁あって、後の昭和十四年十二月二十三日に夫婦となり、第一子も産まれ沼田町の職員として勤めてをりました。しかし戦局は悪化の一途を辿り、昭和十八年の春に召集令状を受け、陸軍歩兵高崎十五連隊に入隊。傷痍軍人ながら再び戦場へ赴くこととなります。新所帯・青木家の大黒柱としての日々は短いものでした。この時、奥さんは第二子を身籠ってをられたといひます。第二子の誕生後、進命は一度会ひに来られましたが、二時間ほどで帰隊されたさうです。
出動前日には青木家へ「ハヤクナッタスグカヘリタイ」「アス四ジニユク」「アスアサコイ」と一日で立て続けに三通電報があったといひます。軍隊は作戦上、秘密の多いところでありますから、部隊の出発も直前まで知らされないのでせう。御家族と面会できたかどうかは不明とのことです。
昭和十九年二月四日、高崎市を出発し、外地の戦場にて散華されました。戦死の公報によれば昭和十九年二月十九日にバシー海峡において、とのことでした。一方、青木家と同じ沼田町内にあります商店主の方が進命とは友人で、戦時中に進命と相まみえたと語ってゐるさうです。
県庁また厚生労働省に問ひ合はせましたが、出港地・乗船名・行先いづれも不明との答へであり、確かなことは分からないといひます。なほ、バシー海峡とは台湾とフィリピンの間・約百キロの幅で、その当時すでに制海権・制空権が敵軍の手中にありました。日本軍にとっては輸送船の墓場だった場所です。
以上は進命の第二子、青木忠昭氏よりお聴きしました。父君・進命と、赤子の頃わづかな時間会っただけ―それだけに父君への思慕は篤いものがあるとお見受けします。
忠昭氏は遺児の会の諸活動へと積極的に参加されてこられました。日本に返還される前の沖縄でおこなはれた運動では、那覇市から摩文仁の丘(沖縄における日本軍最後の戦闘地)まで丸一日かけて歩いたさうです。現在は群馬県遺族の会会長に就かれ、同会の運営と御英霊の慰霊顕彰に尽力してをられます。
役所・軍隊等より進命宛の書類、また進命より御家族宛の文書などは、進命の第一子の方の娘さんが保管してくれてをり、記事作成につきたいへん参考になりました。
群馬縣護國神社
住所 群馬県高崎市乗附町二〇〇〇
電話 〇二七-三二二-六三〇九
祭神 四万七千柱
例祭 十月十六日・十七日」