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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】岩手護國神社
投稿日:2025年3月29日(土)
「全国一之宮めぐり」で御朱印を集めるムーヴメントがあるのならば、戦後80年を迎える今年は「全国護國神社めぐり」を提案してもいいのではないかと考える権禰宜の宇多です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年1月27日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
三度もの招集に応じ 御国のために尽くされて
岩手護國神社宮司代務者 藤原 大修
「大正二年、岩手県西磐井郡山目村(現・一関市山目町)に生まれた阿部正男命が、最初に応召し、現役兵として近衛歩兵第三連隊に入営したのは昭和九年六月、二十一歳のときだった。連隊が所属する近衛師団は、天皇と皇居(宮城)を守護する部隊で、全国から兵士を選抜する、いはばエリート集団。正男命にはそんななかで約一年任務に就き、翌年十一月には帰休除隊、その後、予備役編入となる。
二度目の招集はそれから二年も経たない昭和十二年七月、弘前歩兵第三十一連隊で勤務演習中のことだった。八月に出発して向かった先は中国。露営生活で場所を転々としつつ、何度も戦闘に参加する。正男命は当時のことを日誌に記録してゐたが、ある日には「高粱畑の其処彼処には敵と入れ(り)乱れ、友軍の戦死傷者が沢山居る。城外、部隊に入れば、敵の屍体、道をふさぎ、畑に充満す」との一文。その他にも悲惨な記述が見られ、想像を絶する戦闘がくり広げられてゐたことを物語ってゐた。
さうした生活も二年が経たうとしてゐた頃、正男命はマラリアに感染してしま府。昭和十四年八月十日の日誌には「マラリヤらしい日増に頭痛激し。午後になれば、一増(層)苦痛も感」との言葉。また十七日には「手紙が来んし、帰るには帰れんし、家の事が思へ出され、仕様なし。子供無き事、無上の淋しさを感ず」と苦悩を滲ませてゐる。日誌からはよくなったり悪くなったりを繰り返す様子が分かり、発熱期と無熱期が交互にくるマラリアの苦しみが伝はってくるやうだった。
招集解除により帰郷したのは昭和十五年九月。どれだけ嬉しい故郷の地だったらうか。山目青年学校の教練指導員として従事し、十六年にはキサ子さんと婚姻。先の出征では子のなきことを淋しく感じてゐた正男命だったが、待望の第一子にも恵まれた。
そんな穏やかな日々も、長くは続かない。昭和十八年七月、三度目となる招集で故郷を離れることとなる。正男命は、パラオなどを経由して東部ニューギニアへ。食料の補給もなく飢ゑに苦しんだ。そして戦争栄養失調症に罹患したひと月後、昭和十九年十月十二日に東部ニューギニアのウエワクで命を落とした。この際もマラリアに罹ってゐたと推測できるといふ。
年の暮れ、戦死公報が家に届けられたときには、炉端を囲んで家族皆で大泣きしたといふ。家族の中には春に生まれたばかりの第二子の姿も。正男命には、次男の存在が伝はってゐたのか、知る由もない。
ここに、一冊の本がある。先に引用した「日中戦争従軍日誌」をはじめ、正男命に関する記録が収められてゐる『歓呼の声に送られて』。編者は、正男命の長男で戦没者遺族相談員(厚生労働省)や一関市遺族連合会の役員などを務めてゐる勝正氏である。
勝正氏は「あとがき」で「父正男の足跡をたどり、戦争の悲惨さや、留守家族の置かれた状況などを思いうかべ、あらためて身に染みて感ずることが多くありました」と述べてゐる。そして、戦後生まれの平和な国に育った若い人たちには、過去の日本の戦争は、遠い遠い昔話にしか聞こえないでありましょう」と。終戦から約四十年を経て生まれた私も、かつては遠い昔のやうに感じてゐた。護國神社に奉仕し、そしてこの一冊を手に取り当時の克明な様子や遺族の思ひに触れて、遠かったものに一歩、また一歩と近づけてゐる気がする。
岩手護國神社
住所 岩手県盛岡市八幡町十三-一 盛岡八幡宮内
電話 〇一九-六五二-五二一一
祭神 三万五千七百余柱
例祭 四月最終日曜日」