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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」】岡山縣護國神社
投稿日:2025年4月12日(土)
本日は天気も良く、いよいよフジのつぼみも膨らんできました。早ければ来週末から月末ごろにかけて花見が楽しめそうです。また、白い義経藤の方は毎年少し遅く、去年は5月始めくらいに満開となっていました……権禰宜の牧野です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年2月24日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
悲運の特攻隊員 故郷の地で・・・・・・
岡山縣護國神社宮司 河野 薫
「当社の宝物遺品館に倉敷市帯江地区出身で海軍上等飛行兵曹、神社(かんじゃ)澄命の遺品が展示してあります。戦争が終はったにも拘らず、故郷の地で零戦に乗って悲運の最期を遂げられた特攻隊員です。
澄命は大正十三年一月八日生まれで、昭和十七年四月に海軍入団のため、帯江青年学校第五学年を中途退学。同年五月一日大竹海兵団に入団し、八月十五日には岩国海軍航空隊に入隊します。十一月二十七日、飛行術練習生「高等科特技」を卒業。十九年一月操縦教員となり、同年十一月神雷特別攻撃隊桜花隊に志願入隊しました。二十年五月一日任海軍一等飛行兵曹、善行章を授かります。責任感の強い人だったさうです。
終戦を迎へたのち昭和二十年八月二十四日、澄命は故郷へと戻ってきました。そして午後四時頃、その悲劇は起こります。澄命が乗った零戦は倉敷市内の水田に頭から垂直に突っ込み自爆。帰らぬ人となりました。
終戦六十周年特集「帯江の歴史」(追加版)には、当時の回想が載ってゐます。「はじめ、親友と一緒に帰って来て、水島に着陸して親友を下ろし、親友はそこから歩いて帰ったそうです。それで本人はまた飛行機でこの故郷上空へ来て、先祖のお墓や、小学校、そして自宅の周囲を何回も廻ってから、急上昇して田んぼへつっこんだそうなんです」。
そして、紹介されてゐた元小学校の担任の先生の手記には、「機体は殆ど(田んぼの中に)ぬまり込んでしまった。わずかに後ろの翼が地上にのぞいている。母の当具乃さんは、走せつけて『きよし、きよし』と翼をゆすぶってよよと泣き崩れた姿もいたましい」と書かれてゐました。母の姿を想像するだけで涙がこみあげてきます。
この事件を知る地元の人は「黒山の人だかりで。スコップで掘ったんだけど、六メートルも埋っていてとても掘り出せなかった」「それはもう肉片がこびりついて、見られたものではなかった」などと語ってゐたといいます。地元の人たちにとって、その後の人生観に影響するたいへんな事件となりました。
戦中、近い特攻隊出撃を期して両親に宛てた手紙も残されてゐます。そのなかには、「今国家の急を思ふとき、自分一己の生命それは小さいものであります。(略)散るのはもとより覚悟であります」との強い思ひが。そして「幾多の戦友は尊き血を流して護国の花と散ったのに自分一人が今日まで生き残ってゐる事が心苦しくてなりません」と書かれてゐます。最後は、両親への御礼、お詫びの言葉で締め括られてゐました。
当時の背景の下、亡くなられた戦友を思ひ、死を選択しなければならなかった心情を思ふと、胸が苦しくなります。このやうな悲しい出来事のないやうに、平和を守り抜き、犠牲となられた英霊の祭祀を改めて大切にしっかりと厳修し、慰霊顕彰に努めていかなければならないと、心に誓ふものです。
岡山縣護國神社
住所 岡山市中区奥市三-二一
電話 〇八六-二七二-三〇一七
祭神 五万六千七百二十八柱
例祭 五月六日・十月六日」