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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」滋賀縣護國神社】 と 今日のフジ
投稿日:2025年4月20日(日)
神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年2月17日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。権禰宜の宇多です。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
全身全霊をかけて友軍機を誘導
滋賀県護國神社宮司 山本 賢司
「岸田清次郎命は、大正十一年四月二十七日生まれ。滋賀県近江八幡市出身で、旧制膳所中学校を卒業後、昭和十三年横須賀航空隊に甲種予科練第三期生として入隊しました。膳所中学校では十六歳で「永遠の生命」と題して全校生徒の弁論大会で優勝するほど成績が優秀だったといひます。
日米の風雲急を告げる昭和十六年十一月、予科練習生教程を卒業し、海軍二等飛行兵曹として直ちに航空母艦・翔鶴に乗り組み、真珠湾攻撃に参加。無事に内地へと帰還するに際し、両親宛に手紙を認めてゐます。
なかでは、幾多の犠牲があったなか、「小生武運強く九死に一生を得、今又故国の土を踏むを得たり」と感激の思ひを報告。その一方で、「我らの戦友は雄々しくも敵の基地真珠湾上空にて、或いは火だるまとなり或は自爆して男子として、日本海軍軍人としての本望を達し、潔よく散り行きたり、中にも半年の間ともに訓練し、寝食をともにせし空母加賀の戦友は殆ど戦死す。我が同期生も自爆、機上戦死を合はせその数、数十名に及ぶ」と戦地の様子を記してゐます。
そして、「この身を捨て、死をもって御国のために尽す覚悟なり」と述懐。「又、いつの日か命下らん。お手紙を出さずに出ることあり。死をもって奉公。靖國の霊に祀らるることをひたすら祈り、日々の訓練に努む。皆々様御壮健にお暮らし下さい」と家族を思ふ気持ちが綴られてゐました。
この後、昭和十七年五月八日、太平洋の珊瑚海における世界海戦史上空前の日米空母機動部隊同士の海戦・珊瑚海海戦を迎へます。機長・操縦士とともに岸田命は電信員として九七式艦上攻撃機に搭乗。三人は敵艦隊の所在捜索のため、同日未明に空母・翔鶴を飛び立ち珊瑚海上を捜索中、いち早く敵の航空母艦であるレキシントンとヨークタウンを発見します。岸田命は機長の命を受け、敵発見の緊急第一報を発信しました。そして次々と、詳細なる戦況を機上から発信するのです。
「〇八〇〇、我敵此の接触を止め帰還の途に就く」と発信し、母艦・翔鶴に向かって帰りを急ぐ頃、翔鶴の飛行隊長・高橋赫一少佐率ゐる攻撃隊が敵に向かって進んでいくところに遭遇します。
機長は、この千載一遇の好機に「敵の状況を一番よく知る自分が、味方の攻撃隊を敵上空まで誘導して最も有効な攻撃をさせねばならぬ」と咄嗟に決心。飛行機の燃料はすでに残り少なく、母艦に帰投する燃料はなくなると分かりながら、再び「我れ帰艦を止め、味方攻撃隊を誘導す」と発信し、敢然として機首を反転し味方攻撃隊の先頭に立って彼らを敵上空に誘導したのです。
誘導したのち、岸田命を乗せた機は敵戦闘機と交戦。被弾のため壮烈なる戦死を遂げることとなりました。岸田命はこのとき十九歳といふ若さでした。
この偵察機反転誘導の壮挙に山本五十六連合艦隊司令長官は、偵察機の偉功を全軍に布告。搭乗の三勇士は実に海軍魂の精華を遺憾なく発揮したとして、論功行賞では搭乗の三人ともに「優賞」、二階級特進の恩典に浴しました。
「凡ての世の人々よ!時は過ぎ行く、人生は短し、この短かき人生に、怠りやごまかしをしてゐる暇はない。ただ我々は、この短かき人生に全身全霊を投げ込んで永遠に輝く社会を建設しなければならないのであります」と弁論大会で叫んだ岸田命は、まさに全身全霊を珊瑚海海戦に投げ込んで、機上からの打電をおこなったのです。
滋賀縣護國神社
住所 滋賀県彦根市尾末町一-五九
電話 〇九七四-二二-〇八二二
祭神 三万四千七百五十柱
例祭 春(四月五日)、秋(十月五日)」
▽4月20日今日のフジ