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【神社新報記事】 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」山形県護国神社
投稿日:2025年9月29日(月)
昨日・一昨日と藤沢市民まつりが開催されました。秋祭とは思えない暑さでしたが、大盛況だったようです。白旗神社神輿保存会と横町山車囃子保存会も元気に参加しておりました…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年6月30日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
機雷敷設の任務を帯びて
山形県護国神社宮司 宮舘 哲男

「山形盆地の東部を流れる、日本一の芋煮会の会場となる馬見ヶ崎川の河畔に建つ山形県護国神社には、約四万柱の御英霊が祀られてをります。
その中の一柱である片山宏郎命は、昭和三年三月二十日、山形市長町に父・清七さんと母・さくさんの次男として生まれました。活潑で面倒見がいい、地元の子供たちのリーダー的な存在であられたやうです。
昭和十八年満十四歳のときに、祖国を守るために志願して、選抜試験を受けて海軍少年練習兵として舞鶴海兵団に入団。海軍少年練習兵は、全国から三千二百人の優秀な人物が選ばれ、宏郎命はその第一期生でした。
宏郎命は、「本寫眞ハ自分ガ練習兵期間中ノ生活、競技、行軍、幕營等、自分等練習兵ノ日常ノコトヲ寫セルモノデアル」と記された練習兵時代の貴重な写真や資料を実家に遺してをられました。几帳面で誠実な人柄が偲ばれます。
なかには水中騎馬戦や水中棒倒、海軍体操などの写真があり、当時の厳しい訓練の様子を窺ひ知ることができます。また、その中でも食事は楽しかったやうで、「主計兵殿ガ五目飯デ祝ツテクレタ
山盛リノ飯ヲ由良浜ノ松並木ノ下デカツコム樂シサ」と嬉しさうに記載されてゐます。
このたび資料を提供いただいた、甥である片山款郎さんは、山形市遺族会連合会会長として活動されてをり、長年に亙り戦争の語り部として、御英霊そして平和について若い世代に伝へ続けてをられます。
宏郎命は一年間の厳しい訓練の後、昭和十九年、海軍特別少年兵として軍艦「成生」に乗船しました。この「成生」は敷設艇であり、その名のとほり、水中に設置され艦船が接近または接触したとき、自動または遠隔操作により爆発する兵器・機雷の敷設が主任務でした。敷設作業は頻繁におこなふものではなく、対潜哨戒や船団護衛なども任務として多かったやうです。
敷設艇団は内地近海の船団護衛をはじめとし、南方占領地近海、遠く海南島、香港、馬公、高尾、基隆、那覇、バンゼルマシン、ダバオ、グアム、サイパン、トラック、ラバウル、大連、旅順、パラオ、ウルシー、キスカ、マニラ、ルソンなど、広範囲な活動をしました。主任務として敷設した九三式機雷は膨大な数に上り、大東亜戦争中、その総数は五万五千三百四十七個に達してゐました。
「成生」での任務を遂行してゐる最中、昭和二十年二月十六日、アメリカ海軍の潜水艦「セネット」が発射した魚雷により「成生」は沈没の憂き目に遭ひます。七十四人が乗ってゐましたが、乗組員全員が死去。宏郎命は満十六歳の若さで亡くなりました。
沈没した場所は紀伊半島の潮岬の南約二百四十キロの沖合で、今も宏郎命は、ほかの乗組員とともに深い海の底に眠ってをられます。
山形県護国神社
住所 山形市薬師町2-8-75
電話 023-631-5086
祭神 4万845柱
例祭 5月11日」
















