投稿日:2021年4月19日(月)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】六白金星:令和3年5月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…なし 身辺に明るさが生じ見通しが良くなり、物事の本質がみえてくるから、英知を活かしてよく観察する様に。何かと出入りが多く慌ただしくなるので、くれぐれも身体には注意を」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和3年3月29日号掲載のコラム「神宮だより」を御紹介致します。
【神宮だより~外宮北御門口の兜石について~】
「外宮北御門の火除橋を渡った左手に苔生した、いかにも年代の古さを漂はせる石積があります。その築石の一つにお猿さんの顔にも似た風変はりな石があります。今日では「猿面石」などと地元の一部で親しまれたりしてゐる石ですが、江戸時代には「兜石」などと呼ばれてゐたやうです。江戸中期に久志本常彰が著した『神民須知』に、「今豊川橋ノ西ノ石積ノ上ニ在」とあり、これによれば火除橋前の警衛第二課北御門番舎横の石積の中にあったことになりますが、加藤忠告が執筆した『宮川夜話草』には、「石垣東の端に兜石」と記してゐますので、現在の石積で判断する限り、忠告の記述が正しいやうに思はれます。夜話草の内容を要約すると次のやうになります。
近頃(江戸中期の延享の頃か)或る候家が参宮した際、この石のことを尋ねたが、居合はせた者は誰もそのいはれを知らなかった。その後松木智彦長官(一禰宜)が誰かからこの石の由縁を教へられたといふ。それによると昔、出陣の時に神前を拝し、必ずこの石を撫でたといふ言ひ伝へがあるとのことであった。また古記を精査したところ、この周囲の石垣は少なくとも近世初期には築石されてゐたのではないかと考へられます。ただ兜石がいつから存在したかは不明です。しかし夜話草の引用文中に「出陣の時」とありますので、管見によれば、内宮門前町である宇治と外宮門前町の山田との長年に亙る確執、つまり文明18年(1486)の合戦を指してゐると思料され、築石まではともかく、兜石そのものは中世の頃この辺りに存在したのでせう。
なほ江戸後期に足代弘訓が著した『世々の惠』によれば、寛文12年(1672)に北御門橋より坂之世古まで土手を築き、堀を掘らせた記事が見られますが、北御門口火除橋周囲の石垣はそれよりも年代が古いといふのが私の見解です。」