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【神社新報記事 「全国護國神社會連載① わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」三重縣護國神社】
投稿日:2024年8月17日(土)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】三碧木星:令和6年9月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…南西・北東 平坦な道を歩いていたら、突然窪地になって、足元が不安定になり、転ぶ恐れがあるから、丁寧な歩みを心掛けてください。落ち着いて、思う様に進めなくとも慌てないこと」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和6年8月12日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、来年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。
【全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~】
<軍刀を「お守りに」と妻に託して 三重縣護国神社宮司 奥山陽介>
「陸軍中尉・坂下喜代治命は、明治42年11月15日、三重県鈴鹿市に南部家五男として生まれた。単身進学した鎌倉中学において配属将校のおこなふ教練の検定に合格。卒業後は久居(現・津市)に駐屯する陸軍歩兵第三十三連隊留守隊に入営した。
一年間の在営の後、豊橋陸軍教導学校に入校して下士官としての教養を身につけ、その後は戦車隊に配属となった。
中国に渡り奉天・チチハルなどに駐屯して地域警備の任務、また幾つかの戦闘にも参加。
昭和10年に歩兵曹長に昇進、翌11年には軍令により久居に帰還した。
妻・敏子さんとの出会ひはビリヤードであった。
当時、久居駐屯地の近くには敏子さんのおばさんが経営するビリヤード場があり、少ない娯楽の一つとして多くの隊員たちが通ってゐた。
そこで出会った二人は互ひの家同士のすすめもあって昭和11年11月に結婚。
命は26歳、敏子さん20歳で、婿入りであった。隊より営外居住が認められ、敏子さんの実家である四日市にて新しい生活が始まる。
昭和13年5月に長男誕生。15年8月には次男が誕生し、子供の成長を日々の励みとしてゐた。
大東亜戦争開戦直前の昭和16年9月、突如連隊にフィリピンへの動員令が下される。
命は出発する前、「この刀をわが家の守りにするやうに」と自身の軍刀を敏子さんに託し、日本を発った。
戦ひの火蓋が切られると、フィリピン各地を転々とし治安戦に従事。そのやうな最中だが、昭和18年には一時帰国が叶った。
妻を労ひ、二人の子供を満面の笑みで抱きしめ、ひとときの安息を得たといふ。しかしその後、命は再びフィリピンに出征することとなる。
連隊は昭和19年9月にレイテ島に移駐し防禦態勢を固めるも、10月20日にアメリカ軍の上陸が開始され、三日後の23日には挺身切り込みし玉砕。
命もレイテ島パロ高地にて散華した。34歳であった。
最期に頭に浮かんだのは、愛する妻と子供だったのだらうかと想像すると、胸が詰まる。
未亡人となった妻・敏子さんは、終戦後、同じ境遇の仲間とともに遺族会活動に邁進。地元の慰霊祭や会合等を精力的に取り仕切り、英霊の慰霊顕彰に力を尽くした。
平成17年には、活動を次男の勝さんにバトンタッチしたが、令和2年に104歳で亡くなるまで、その思ひが途絶えることはなかった。
当時幼かった勝さんには、お父さんの記憶がほとんどないといふ。「せめて顔をおぼえてゐれば。声をおぼえてゐれば」と悔しさまじりに語る姿がとても印象的であった。
四日市市の自宅には、今も坂下家の「守り」として、坂下喜代治命が残した軍刀が大切に保管されてゐる。朱の鞘に収まるその刀から、「家族を守りたい」といふ命の思ひが感じられる気がした。
さうした英霊たちの思ひを、伝へ続けられる神社でありたいと改めて思ふ。」
三重縣護國神社 住所:三重県津市広明町387 御祭神:三重県にゆかりのある御英霊六万三百余柱 例祭:春(4/22)、秋(10/22)