投稿日:2009年5月31日(日)
さて、白旗神社では毎年6月13日に御祭神 源義経公の鎮霊祭を執り行っております。
義経公は文治5年(1189)腰越の浜において首実検が行われ、その後、御首がこの地に辿り着いてより本年で820年を迎えます。
そこで、義経公の「みたま」なごめの祭りを執り行い、今後益々の御神威発揚を祈念するべく『源義経公没後820年鎮霊大祭』を斎行することとなりました。
当日は、鎌倉芸能連盟により【静の舞】が奉納され、義経公と静御前の約820年ぶりの再会が叶うことになっております。
820年余りの時を経た悲運の2人の再会に是非ともお立会い下さいまして、歴史の生き証人となって下さいますよう御案内申し上げます。
静御前は、京でも有名な白拍子(舞女)で舞・容姿ともに随一といわれる美女であった。
平家追討の総大将 源義経公に見初められ側室となるも、兄頼朝公の怒りをかった義経公と共に天王寺・吉野山と逃避行を続けるがやがて捕らわれてしまう。
文治2年(1186)4月8日鶴岡八幡宮の舞殿において、水干・緋袴・立烏帽子・細太刀・檜扇の装いで舞った静御前は、鎌倉の繁栄を願ったものではなく、愛する義経公を想い舞う。
吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
【吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい】
静や静 しずのおだ巻きくり返し 昔を今に なすよしもがな
【倭文(しず)の布を織る麻糸を丸くまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら】
吾妻鏡によれば「誠に社壇壮観、梁塵もほとほと動つべし、上下皆興感を催す」と絶賛している。
しかしそれを観た頼朝公は激怒したが、妻の北条政子が取り成し事無きを得た。
その年の7月、義経公の子供を産むが頼朝公に取り上げられ由比ヶ浜に沈まされてしまう。
その後、静御前は京に戻り22歳で亡くなったという説があるが定かではない。