投稿日:2020年11月30日(月)
今日で11月も終わり。様々なことが年末年始に向けて動いています。境内の落ち葉もだいぶ落ち着いてきましたが、上を見上げるともうひと波ありそうです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙である『神社新報』令和2年10月26日号掲載のコラム「杜に想ふ」を御紹介致します。
【杜に想ふ~地縁社会の結束~】
「秋まつり」の時期がやってきた。その一年でもっとも大事な祭りが、今年は縮小されるところが多からう。たとへば、宵宮での神楽や本宮での神輿渡御が中止されて祭典だけになる。私の郷里の宮でもさうである。産土神の荒神社や株(本家・分家の同姓集団)神の摩利(支天)神社などの小祭りは、総代と当番家(当屋・頭屋)だけでおこなふところもでてきた。コロナ禍のせゐである。いたし方ないこと、と従ふしかない。そして、来年は元に戻って斎行ができることを祈念するしかないだらう。
実際に、このまま祭りがさびれていくのではないか、と心配でもある。とくに、過疎が進む山間地の村落では、従来どほりに祭事をおこなふには、すでに稼動人数が不足する傾向が生じてもゐるのだ。これを機に、簡略化しよう、といふ声があがるのも予想できるのである。
従来どほりに厳重に、とはいへない。これまでも時どきの変化を経ながら続いてきた祭りである。ただ、何を変へて、何を伝へるベきか。それを、衆知を集めてはからなくてはならないだらう。そこで、参考にすべき先行例がある。それは、葬儀である。葬儀は、すでに大きく変化しつつある。
まづ、家でとりおこなはず、葬儀社に委ねるやうになったところで変化が生じた。それまでは、喪に服して遺体につきそって忌籠る遺族に代はって、近隣の人たちが葬儀の手配や弔問客の応対、食事のあれこれなどをいっさいまかなってゐた。それは、祭りにおける当番組(頭屋組)と同じやうに地縁社会の結束をはかることになった。それが、葬儀社に委ねるやうになったことで、変はった。銘々の労働は軽減されたが、銘々がみはからって働くことができた地縁社会の能力は後退した。
近年は、家族葬といふ密葬が多くなった。とくに、今年のコロナ禍で、それが進んだ。ネット葬(葬儀をネットで中継し、それにオンラインで参列する)なるものさへもでてきた。それが悪いともいへないが、「故人の遺志により」を方便化してはならないやうに思ふ。
三年前のこと、郷里で親しい僧侶が嘆くのである。東京に出てゐる某家から宅配便が送られてきて、開けてみたら中身が遺骨。親が死亡したので墓に埋葬してくれるやうに、とメモが入ってゐた、といふのだ。
そのとき、彼は、将来かうしたことが増えなければよいが、と案じてゐた。その心配どほり、それに類する、密葬後とはいっても戒名もない都会からの埋葬依頼が増えてゐる、と最近嘆いたことであった。
ネット社会でもある。人づきあひのあり方も変はってきた。しかし、「遠くの親戚よりも近くの他人」、ともいふ。この時期だからこそ、地縁社会の相互扶助を見直さなくてはならないやうに思ふのである。」
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)