投稿日:2020年7月14日(火)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】一白水星:8月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…北 物事が良く整いそうです。悩み事も解決の方向に動き出しほっと一安心。思いもよらない遠方からとても良い話が舞い込んでくるので、大いに励んで。独身者は良い縁に恵まれる」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙である『神社新報』令和2年7月6日号掲載のコラム「神宮だより」を御紹介致します。
【神宮だより ~上部越中守貞永~】
「上部越中守貞永は、度会姓の外宮権禰宜・上部永元の長男として享禄二年(一五二九)に生まれ、織田氏や豊臣氏などを檀家にもつ御師として活躍しました。また、神領の法律を制定するなどして近世の山田奉行の前身ともいへる町政に関与し、戦国時代より無秩序化してゐた住民の生命と財産の保護をはかった人物です。遷宮復興に努め、宇治山田の発展に努めた功績などから従四位下を授けられ、度会朝臣の姓も許されました。
京官に任じられ在京時の天正十九年(一五九一)歿。墓所は京都建仁寺常光院にあり、また伊勢市楠部町の松尾観音寺に度会貞永供養五輪塔があります。
貞永が生きた時代は、長い神宮の歴史の中でも式年遷宮が一時中断してゐた時期で、殿舎が荒廃してゐるのを歎き、織田信長に御造営料の寄進を請ひ、許容されて信長の家臣である平井久右エ門とともに遷宮の事務を執行。信長は遷宮を見届けることなく不慮の死を遂げます。が、その意思は豊臣秀吉に継承され慶光院周養と協力して、天正十三年(一五八五)両宮の正遷宮を遂げてゐます。
自らの住居は現在の伊勢簡易裁判所一帯で、裁判所には「上部越中守邸跡」と刻んだ石碑が立ってゐます。江戸中期の河崎延貞『蟄居紀談巻下』には「上部氏住居の西の山を坊山と云也、昔は此山高神客神山に連り突出して小峯あり、亀の伏て居る様なりとて亀居山といひしとかや、中古其山咽頭の所を堀切て通路とせし云々」とあり、参宮者の便宜を図るために住居の西側の山を切り開いて道路を通したらしいことが伝へられてゐます。
六十二年の生涯でしたが、神宮や遷宮だけでなく神都の発展にも力を尽くした人物であったといへます。(広報室・上部真稔)」