投稿日:2017年4月19日(水)
春の嵐。それが過ぎたら初夏の空気…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙である『神社新報』平成29年4月3日号掲載のコラム「神宮だより」の記事をご紹介致します。
「【神宮だより~『経雅記』~】
江戸時代後期の皇大神宮禰宜であった中川経雅(なかがわつねただ)の神事日記である。神宮文庫所蔵。巻数はふめいであるが自筆本十七冊が現存する。収録年代は安永三年(1774)七月から寛政五年(1793)十二月までの約二十年分である。但し欠本があるため年代は一順しない。掲出本は自筆本第三冊目の安永四年(1775)正月元日条の巻頭部分。
経雅は幼名を岩五郎、通称を豊後・尚侍と称した。寛保二年(1742)九月四日皇大神宮七禰宜中川経行(つねゆき)の長子として生まれる。延享四年(1747)九月権禰宜に補せられ、従五位下に叙す(六歳)。安永二年(1773)十一月十三日、先補の禰宜藤波氏式(ふじわらうじもち)・薗田守諸(そのだもりつら)を超えて八禰宜に補任(32歳)。その後累進して寛政六年(1794)二月に四禰宜に昇進し翌三月従三位となる(53歳)同九年(1797)七月、三禰宜に補任。生来病弱のため文化二年(1805)三月十三日、64歳で薨去。禰宜在任は32年に及ぶ。
本書は経雅の八禰宜から五禰宜時代までの約二十年間に亙る祭典奉仕を漢文体で記録する。その内容は日々宿衛、諸神事、祭典奉仕者、神饌料、行事作法などを闡明に記し、また経雅が忌服や遠隔別宮の奉仕で皇大神宮の祭典に不参の場合には、後に同輩の禰宜や物忌(ものいみ)・内人等から神事の様子を聞き書きするなど詳細に記録する意図が垣間見られる。これは自身の記録であると共に後代の神宮祀官の亀鑑として子孫に伝へることを念頭に執筆されたものであるといふ。『大神宮儀式解』の著者として世に名高い経雅の皇大神宮禰宜としての姿を窺ひ知る重要な資料である。なほ『荒木田経雅著作撰集』(平成27年、学校法人皇學館発行)に本書の安永年間の記録が翻刻されてゐる。」