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【神社新報記事】鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学 なぜ山を誉める神事があるのか~

投稿日:2022年5月18日(水)


久しぶりの晴れ間!いざ洗濯!…権禰宜の遠藤です。

さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年2月21日号掲載のコラム「鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学~」をご紹介致します。

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【鎮守の森の過去・現在・未来~そこが知りたい社叢学 なぜ山を誉める神事があるのか~】

「<志賀島の神社>

志賀島三山の勝山、衣笠山、御笠山を祓ひ清めて、この三山を誉める。

「ああら、よい山、繁った山」

「山ほめ祭」は、福岡市東区志賀島に鎮座する式内社・志賀海神社(西高辻信良宮司代務者)で春秋二回おこなはれる。4月15日に斎行される春は「山誉種蒔漁猟祭」と称し、11月15日に斎行される秋は「山誉漁獺祭」といひ種蒔の所作はない。

志賀海神社は、参道が照葉樹林に覆はれ、森閑として海人の神が御座す神社に相応しい。

この神社は、全国の綿津見神社の総本宮ともいはれ、龍の都とも称されてゐる。古代氏族の阿曇氏の誕生の地で、宮司は阿曇家が永代に亙り務めてゐる。・御祭神は、綿津見三神で伊邪那岐命が阿波岐原にて禊祓をされた時に誕生した神々。海をつかさどる神である。

社伝によると、古くは志賀島の北、勝馬の地に表津宮、仲津宮、沖津宮の三宮がそれぞれあったが、始祖の阿曇磯良が、表津宮を遷座して現在の御本社にし、仲津宮、沖津宮はその摂社にしたといふ。

磯良が、神功皇后の新羅出征の舵取りを務めたことは有名な伝説。

その神功皇后が船出前に志賀島に立ち寄られた時、「山ほめ祭」を御披露したところ感動されて「志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝へよ」と命じられたといふ。

御神前の庭に盛り砂をし、神名備よりいただいた、身の丈の倍ほどの神薩で神功皇后ゆかりの椎の木を立て、前庭に筵を敷き、社人らが着座して「山ほめ祭」は始まる。

大宮司一良が神籬より「ことなき柴」の枝を折りとり、志賀三山を祓ふ。次に扇を開いて右手にもち、楽座一良の笏拍子に|あはせて、三山を扇と手の拍合はせで拝する。続いて、宜別当一良が神籬の前で「ああら、よい山、繁った山」と三山を三度ほめる。そして、禰宜一良と二良による問答の後、盛り砂に矢を三本射るのは鹿狩の所作であ

る。

さらに、鯛釣りの所作「では、藁製の鰭を両手にもつ社人と、禰宜二良と別当一良が櫓を漕ぎなが一ら、終はりに「よせてつる」「いくせでつる」の三度の掛合ひをする。

<神は山に坐し>

日本人の信仰や感性に「山には神が坐す」といふものがある。遠い昔、山の清浄な場所の巨岩や巨樹に神霊を招いて神祭をおこなった記憶によるものであらう。神社の原一点的存在といへる、神霊の依代とした岩を磐座、神域に樹木を立てて祭壇としたものを神籬、岩や石を積み並べた祭場を磐境といった。

それらは、宗像大社の神宿る島、「沖ノ島」で今に拝見することができる。

高山を発した水は、水田を潤す。稲作文化とともに、水の流れに従ひ、滝・早瀬・淀・池・河口・海へと神霊も移り神社が勧請されるのである。草木に活力を与へる水こそ豊饒をもたらす神であり、わが国の生命の源であるといへよう。

また、民間信仰では、春になると山の神が山から降りてきて田の神となり、秋には元の山に戻るといふものがある。実に、山は恩恵の源であり、神の座する場所、神そのものといへる。神も山も、数へる時には「座」を用ゐるのも、山への信仰の現れと考へられないか。

<神の宿りし島>

『古事記』にある常世の国とは、はるか海の彼方にあり、時間の経過がなく、永遠に歳をとらない世界だといはれてゐる。神産巣日神の御子で、少名毘古那神は、大国主大神と協力して国造りをされたが、その途中でこの常世の国に去って行かれたと記されてゐる。さらに記紀には、田道間守が垂仁天皇の勅で常世の国に至りて、非時香菓を得て十年後に帰朝したが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで死したことを伝へてゐる。

中国にもこの常世の国と似た話がある。それが蓬莱思想である。前漢時代に司馬遷が撰じた『史記』には、東海中に三神山(蓬莱・方丈・激州)があると記してゐる。仙人が住み、不老不死の仙薬もある神仙の島で、別称を神島とも。とのやうな神仙島や仙薬が存在することは、現代では非常識だが、古代においてはむしろ常識だったといヘる。

『史記』には、奏の始皇帝と方士徐福の話も記されてゐるのである。・この蓬莱思想は、『竹取物語』や『今昔物語』に記されてゐたが、平安時代の終はりに道教に取り込まれ、さらに、その道教の衰頽とともに人々の記憶から消え去った。沖ノ島は、宗像大社の沖津宮で「神宿る島」といはれ、島そのものを御神体とした神島。そこで、祭祀は巨岩群の上部や下部で斎行され、十七世紀半ばまで社殿は築かれなかったといはれてゐる。

この神島の神聖を守るため、多くの「禁忌」があり現在まで厳格に守られてきた。それは、普段の上陸の禁止、女人の禁制、島内での肉食の禁止、次に、一本一草一石たりとも持ち出しの禁、上陸の際は着衣をすべて脱いでの禊などで、沖ノ島で見たり聞いたりしたことは一切口外してはならず、人々は「不言様」と呼んでゐる。

志賀島では、志賀海神社の宮司家は代々、島内に墓を造らないといふ禁忌がある。また、宗像と同じやうに沖津宮はじめ三宮があったこと、蓬莱島と同様に勝山はじめ三山が存在してゐることも注目に値するだらう『魏志』倭人伝の奴国や伊都国の東方海中にあたるので、「金印」が出土した理由も頷ける。

<山を誉める民>

志賀島は、常世の国、蓬莱島、神島として信仰されてきたのである。その象徴的存在が志賀三山といへる。神の島の、神の山なのだ。山を誉める。といふことは、祝詞の称辞と同一概念と考へる。まさしく、山の神を称へてゐるのであらう。

次に、海の民にとって島や岬の山々は、海上航行の大事な目標物である。「山当て」「山合せ」といって、生死を分ける位置確認の存在といヘる。

さらに、海の民にとって山や森の恩恵は計り知れない。漁猟や航海のため船の用材の提供がある。また、近年、山や森の養分やミネラルが、雨降り、川から海へ下り、プランクトンを育て豊漁に連鎖するともいはれて「ゐる。-海の民がなぜ山を誉めるのか。古代の蓬莱思想、わが国では神島信仰に起源があると考へる。古来、大陸との交流を重ねてきた九州の位置と神話に彩られた習俗の神道文化がここにあると思ふ。」


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
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