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伊勢神宮崇敬会 発行【みもすそ】 特集「伊勢街道」

投稿日:2018年8月9日(木)


昭和20年8月9日11時2分、長崎に米軍によって原子爆弾が投下され、当時市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊したといいます。

犠牲になられた方々のご冥福を心より祈念申し上げます…権禰宜の遠藤です。

さて、伊勢神宮崇敬会発行の『みもすそ』86号(平成30年春)より、特集「伊勢街道」を御紹介致します。

みもすそ86 表紙

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「長い年月を経た史跡や道標、常夜燈が、お伊勢さんをめざす旅人を見守る――。
江戸時代、おかげ年には年間数百万もの人々が押し寄せた伊勢参り。数ある参宮道のうち、メインルートとなったのが、関東方面に通じる伊勢街道と、関西からの旅人を迎えた伊勢本街道です。
本紙では二回にわけて、二つの旧街道を特集します。初回は、東海道と連結し、東海道に次ぐ交通量を誇った伊勢街道です。
<日永(ひなが)の追分から神戸へ>
その昔、江戸日本橋から東海道を歩いた旅人は、熱田の宮から海路(七里の渡=しちりのわたし)で木曽三川を越えて桑名へ。「伊勢国一の鳥居」に迎えられて伊勢国入りを実感しました。この大鳥居は神宮式年遷宮毎に建て替えられる習わしで、現在の鳥居は豊受大神宮(外宮)御正殿の棟持柱、宇治橋西詰鳥居を経て、三たびの役割を果たしています。
ここから天下の公道・東海道を20㎞余り南下した日永の追分(四日市市)が伊勢街道の起点です。
追分の鳥居は安永三年(1774)、この道をよく利用していた商人が、東海道との分岐点に鳥居がないのを遺憾とし、有志を募って敷地を購入し建てたのがはじまり。「この鳥居も神宮式年遷宮を契機に建て 替えられ、現在の鳥居は皇大神宮(内宮)別宮・伊雑宮の古材をいただいたもの。敷地内には飲用できる湧き水が引かれており、街道のオアシスといった雰囲気。お茶やコーヒー用にと、近在の人々が汲みに訪れます。
伊勢街道はここから県道四日市鈴鹿線を南下し、鈴鹿川を渡ったところで堤防沿いに進み、常夜燈を目印に左へ折れます。とたんに道幅が狭くなり、ゆるやかに蛇行や起伏しはじめて街道らしくなってきます。
神戸の見附(鈴鹿市)は、通行人を監視する番所が置かれていたところ。夜間には木戸を閉じて通行を禁じ、町の治安を守っていました。道の両側には、積み上げられた石垣が往時のまま残されています。
近くの老舗旅館「加美亭」さんでお話をうかがうと、「今もこのあたりで旅館を営業しているのは当館くらいですが、昔は旅籠や遊郭が並ぶ賑やかな通りだったと祖母から聞かされました」と話してくれました。
鈴鹿市役所の周辺には老舗の商店や立派な山門を構える寺が多く、神戸藩の城下町として賑やかだった頃を偲ばせます。

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南下するにつれて街道は徐々に伊勢湾へと近づき、伊勢型紙の職人が集まる白子へ至ります。狭い道筋のところどころに連子格子の家や和菓子店、海産物商などの老舗が点在し、昔ながらの港町らしい風情を醸しています。

<江戸橋から津観音へ>
津市河芸(かわげ)町に入ると、伊勢街道と巡礼道の追分に甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂があります。
参宮者の無事を祈願し、茶を接待した休憩所で、屋根の頂部に水が伏せられているのですが、その由来は不明とか。伊勢街道はここから国道23号を左右にまたぎながら進みます。「三重大学の手前にある追分には、常夜燈、道標、松の古木が残っています。この一帯はかつて松林の続く海辺の土地でしたが、近世になって街道沿いに家並みが生まれたことから「町屋」が地名になったそう。高さ4.2mの常夜燈は、江戸時代、木綿の産地として有名だった伊勢国に、武蔵国の木綿業者が寄進したようです。
志登茂川(しともがわ)に架かる江戸橋は、江戸に向かう藩主の見送りもここまでということで命名された歴史ある橋ですが、現在架け替え工事が行われています。西詰めに立つ江戸橋常夜燈は、伊勢街道と伊勢別街道の分岐点にあたり、かつては夜道の安全を確保するために一晩中火がともされ、街灯、の役目を果たしてきました。「安濃川を越えたら、恵日山(えにちざん)観音寺(津観音)です。ここは日本三大観音の一つとされ、藩主・藤堂高虎の祈願寺でもありました。かつて問屋・本陣・脇本陣などがあった門前町(伊勢街道)は、アーケード商店街になっています。
岩田川を渡ってしばらく行くと下弁財町です。交差点に面して閻魔堂と市杵島姫(いちきしまひめ)神社が並び、江戸時代のおもかげを残す通りを歩くと、レトロな酢醸造元から爽やかな香りが漂ってきます。

<雲出川を越えて松坂城下へ>
津市南郊の藤方は、もとは藤潟とも書かれた海沿いの湿地で、中世から近世にかけて製塩が行われていました。国道やJRよりやや高台を行く街道沿いには、皇女倭姫命が天照大御神を奉戴したと伝わる元伊勢のひとつ加良比乃(からひの)神社が鎮まっています。

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雲出川を渡ると松阪に入ります。川の両岸に立つ常夜燈は、北詰が天保五年(1835)、南詰が寛政十二年(1800)のもの。架橋により、現在地へ移設されました。
雲出川右岸の町・小野江は、幕末の探検家で、「北海道の名付け親」として知られる 松浦武四郎の故郷です。生誕二百年を迎えた今春、伊勢街道に面した誕生地(実家)の一般公開が始まりました。
「武四郎は少年期に街道を往来する旅人から各地の話を聞き、未知なる世界への好奇心を募らせ、諸国行脚の旅に出ました。当時は未開と言われた蝦夷地(北海道)を六度も探査。数々の出版物でアイヌ文化を紹介しました。旅に生きた巨人のルーツは 伊勢街道にあったのです。
奈良街道との分岐点にある月本(つきもと)の追分道標を過ぎ、三渡(みわたり)川を越えて、初瀬街道との追分六軒から市場庄へ。連子格子の家並みが続く市場庄の家々には「くすりや」「ぞうりや」「合羽屋」など昔の屋号が掲げられ、宿場町であった頃をほうふつさせます。
阪内(さかない)川を越えたら、いよいよ松坂城下。 松阪の開祖・蒲生氏郷は、それまで海寄りを通っていた伊勢街道を城下へ引き込み、商業を奨励してのちの豪商を生む基盤をつくりました。松阪商人の館や三井家発祥地などが往時をしのばせています。

<斎宮から神都・伊勢へ>
櫛田川を越えると、間もなく明和町です。現代のような架橋技術がなかった時代、川は通行人にとって難所でした。櫛田川や祓川は、渇水期には仮の板橋を設け、増水期は小舟で向こう岸へ旅人を渡し、それぞれ橋銭舟銭を徴収していました。「天皇に代わり、神宮に仕えた皇族女性・斎王(さいおう)が暮らした斎宮周辺は、今も古い家並みがよく保たれていて絵になります。
竹神社は、かつて五百人以上が暮らした 斎王宮の中心だったと比定される地。斎王制度は飛鳥時代から六十七代、六百六十年以上続きました。
さて街道を歩いていると、かつての宿場町などで連子格子に瓦屋根の懐かしい家並みに出会いますが、同じように見えて実は大きな違いがあります。
松阪まではほぼ平入りだったのに対し、 斎宮あたりから平入りと妻入りが混在しはじめ、小俣町まで来るとほとんどが妻入りに。伊勢の庶民は、神宮の社が平入りなので、神様と同じでは畏れ多いと遠慮して妻入りにしたといわれ、妻入り、切妻が伊勢の民家に普及しました。宮川は、神都に入るには必ず渡らねばならない伊勢最大の河川です。明治三十年 (1897)に鉄道が開通するまでは桜の渡が利用されていました。
筋向橋まで来たら外宮まではあと少し。歩き旅の時代、外宮参拝は北御門から入るのが一般的でした。外宮参拝後は、坂道を登って旧遊郭街古市へ。牛谷坂を下れば、内宮が鎮まる宇治の町です。 「気持ちのよい春の日、古の旅人が辿った伊勢街道を歩いてみてはいかがでしょう。


白旗神社ホームページへようこそ。当社は古くから藤沢の地に鎮座する古社で、相模國一之宮寒川神社で有名な寒川比古命と歴史上のヒーロー・源義経公をお祀りしています。寒川比古命は厄除け・方位除けの神様として知られます。また武芸、芸能、学問に優れ、才気あふれる源義経公は、学業成就、社運隆昌などのご神徳があります。境内には、悠久の歴史を感じる史跡が多く、四季を感じられる緑豊かな自然もあります。
ぜひ早起きした朝やお休みの日にでも、お気軽に当社にお越しください。皆様のご参拝を心よりお待ちしております。