投稿日:2023年6月29日(木)
6月も今日と明日で終わり。そろそろ蝉の声が聞こえてくる頃でしょうか。
いよいよ藤沢に引っ越して初めての夏がやってきます!出仕の宇多です。
さて、本日は参道脇、石段右側の石碑について、社報『ささりんどう』のアーカイブに詳しい記事がありましたので、私の勉強がてら紹介いたします。
木曽御嶽山ゆかりの石碑
台町町内会(辻堂屋石井商店) 石井 晃司
昨年の本誌8号で、白旗神社本殿下の二十四基の庚申塔について、氏子総代の東福寺さんが興味深い由来を書いておられましたが、今回は石段右側にある三柱の石碑について書かせていただきます。
それぞれ御嶽山、三笠山、八海山という文字が刻まれた三柱の石碑が白旗神社境内に建立されたのは昭和九年のこと、建立者は私の父、石井惣七(故人)で当時二十歳でした。
建立当時の場所は現在の社務所裏手の林の中だったということで、現在地移転は昭和五十一年、白旗神社復興事業による境内整備工事に伴って行われました。
近藤宮司さんのお取り計らいによるものですが、それにつけても大鳥居から本殿目指して進む石段わきに堂々と立ち、参詣の皆さんに「この石碑にはいったいどういう意味があるのですか?」と関心をもってもらうことも多く、何と恵まれた場所に移していただいたかと恐縮するばかりです。また、私ども家族にとっては、亡き父を偲ぶよすがともなる石碑です。
中央の石碑に彫られた「御嶽山」の文字でもわかりますが、この石碑のルーツは木曽御嶽山にあります。ご存知のように、昔から日本では山を神として崇め、そこへ入って修行することで悟りを開くといった信仰が人々の間に浸透していました。
石や滝に八百万の神が宿るという考え方は、四季折々美しい変化を見せる日本の風土のなかで自然発生的に生まれ、私たちの暮らしにしみこんでいったもののようです。
日本各地に山岳信仰の霊山とされる山は数々点在しています。浅間神社を祀る富士山をはじめ、身近には阿夫利神社を祀る大山もおなじみです。
江戸時代には一般庶民が講をつくって盛んに富士詣でや大山詣でに出かけたといいますが、私の父が出かけたのは、信州木曽御嶽山でした。富士山と並んで、信仰登山の霊峰として全国的に名高く、今でも多くの修行者登山者を集めています。
当時、十五、六歳だった父が霊峰御嶽山をめざしたのは、相次い父親や兄弟を亡くしたことと関係があると思います。
奈良時代(七〇二)に創建されたといわれる御獄神社には、国常立命(くにとこたちのみこと)を中心に、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の御三神がられていますが、特に少彦名命、大己貴命は薬師の道を司る神様だと言われています。すなわち御嶽山の山神様は病に悩む人々を救う医薬の神様として、古来人々の厚い信仰を集めてきたのです。
病で立て続けに家族を失った当時の父にとって、悠々と聳える美しい御嶽山へ登拝することは、信仰という的であったと同時に大きな自然の中に身を置くことによって、大き心のよりどころを得ることができたのだと思います。
私も父の存命中あるいは亡くなった後何回御嶽山に登拝していますが、標高三〇六七mの美しい山容を誇る御嶽山は豊かな水源と深々とした緑に恵まれ山であることを実感します。
また、山肌を豪快な音を立てて流れ落ちるいくつもの滝に遭遇するたびに、かつてこの滝に身を打たれ一心に清めの修行を行った若父の生真面目さに、いまさらながら心打たれるものを感じるのです。
白旗神社の境内に御嶽山御三神を祀る三柱を建立させていただいたくわしいいきさつはよく分からないのですが、身近な氏神様のそばに立てさせてもらえばいつもお参りができると考えたのでしょうか。
その後の父は、生涯毎月一日と十五日の二回、氏神様とこの三柱の石碑への参拝を欠かしたことがありませんでした。
父から白旗神社にまつわるエピソードを聞いたことがあります。太平洋戦争後シベリアに抑留されていたときの話ですが、たまたま戦友から紙巻きタバコ用に一枚の紙をもらったのだそうです。何か文字が書いてあるなとよくよく見てみると、これが白旗神社の御守りの紙だったというのです。こんな極寒の地で、まして氏神様の御守りを手にしようとは。父はこのことで生きて日本へ帰れると確信したといいます。このときの御守りは今でも我が家の神棚に御神体とともに祀ってあります。
父がやってきたようにはなかなか行動できませんが、白旗神社の鳥居をくぐり三柱の石碑を目にするたび、私たちも白旗神社と御嶽神社の両御社のありがたい縁をいただいているのだと、自然に感謝の気持ちが生まれてきます。
ご参詣の折、石碑にお気づきになったら、こんないきさつがあったのだと思い起こしていただければ幸いです。