投稿日:2019年6月10日(月)
梅雨らしい天気が続いておりますが、予報を見ると鎮霊大祭の日には上がりそうな感じで、今のところ胸をなでおろしております…権禰宜の遠藤です。
さて、白旗神社では文治5年(1189)に源義経公が奥州平泉衣川館で自害され、其の御首が鎌倉腰越に運ばれ首実検を為されたされる6月13日に毎年鎮霊祭を執り行っております。
本年は義経公没後830年の節目の年にあたり、鎮霊大祭として氏子崇敬者の皆様ご参列のもと下記の通り斎行致します。
祭典後には、花柳流花人会の方々によります「静の舞」(しずかのまい)を奉奏申し上げ、義経公の御霊の平安とご神威の発揚を祈念致します。
当社よりご案内申し上げた方以外にもご見学は自由に行っていただけますので、義経公の御遺徳を偲び、御霊慰めの御祭りに是非足をお運びいただきますようご案内申し上げます。
(※掲載しております写真は10年前、源義経公没後820年鎮霊大祭の際の様子です)
記
日時:令和元年6月13日(木)
午後5時~ 祭典
午後6時~ 静の舞(花柳流花人会)
場所:境内特設祭場(雨天時は祈祷殿内)
その他:雨天決行
当日は境内への車両の進入は出来ませんので、公共交通機関のご利用をお願い致します。
~ 静の舞 ~
静御前は、京でも有名な白拍子(舞女)で舞・容姿ともに随一といわれる美女であった。
平家追討の総大将 源義経公に見初められ側室となるも、兄頼朝公の怒りをかった義経公と共に天王寺・吉野山と逃避行を続けるがやがて捕らわれてしまう。
文治2年(1186)4月8日鶴岡八幡宮の舞殿において、水干・緋袴・立烏帽子・細太刀・檜扇の装いで舞った静御前は、鎌倉の繁栄を願ったものではなく、愛する義経公を想い舞う。
吉野山 峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
【吉野山の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい】
静や静 しずのおだ巻きくり返し 昔を今に なすよしもがな
【倭文(しず)の布を織る麻糸を丸くまいた苧(お)だまきから糸が繰り出されるように、たえず繰り返しつつ、どうか昔を今にする方法があったなら】
吾妻鏡によれば「誠に社壇壮観、梁塵もほとほと動つべし、上下皆興感を催す」と絶賛している。しかしそれを観た頼朝公は激怒したが、妻の北条政子が取り成し事無きを得た。
その年の7月、義経公の子供を産むが頼朝公に取り上げられ由比ヶ浜に沈まされてしまう。
その後、静御前は京に戻り22歳で亡くなったという説があるが定かではない。
演 者
花柳もしほ
(後見:花柳花人)
演 奏
《三味線》
杵屋 邦寿
杵屋 嘉寿
《唄》
杵屋 三七郎
《鳴り物》
福原 貴三郎
福原 鶴之助
福原 百貴
~花柳流花人会~
花柳流花人会は、昭和64年発足以来数十名の会員をもち、現在、花人取立による名取12名の他にも預かり名取数名を含む約40名の会員が徹底した個人指導で日々稽古に励んでいる。
三ヵ年に一度開催の「花人会」おさらい会の他に、一月の“踊り初め”7月の“ゆかたざらい”の年2回の勉強会を毎年続けて行い、技芸の修練と上達を目指している。
他にも、希望者は逗子、鎌倉、横浜等地域の文化団体の主催する舞踊会にも随時参加している。
平成20年に国立小劇場において花人会20周年の会を開催した。
(花柳花人日本舞踊教室HPより)
花柳流花人会の皆様には、820年鎮霊大祭の際にも静の舞をご奉納いただいております。