投稿日:2023年11月9日(木)
七五三のお参りで来られた方々を見ていると、それぞれ形は様々ですが成長したお子さんを見つめるご家族御親族の眼差しはどれも喜びと慈しみに満ちていてこちらも嬉しくなります…権禰宜の牧野です。


「神宮摂末社の歴史 その二十六 多岐原神社の歴史 〈前編〉
皇大神宮摂社多岐原神社は、延長五年(九二七)成立の『延喜式』の「伊勢大神宮式」及び「神名式」に登載されています。当社は、寛文三年(一六六三)に大宮司大中臣(河辺) 精長により再興されたもので、往古の鎮座地と断定はできないものの、社前に旧熊野街道が走り、その道から一五〇メートル程で宮川の渡し場 (三瀬の渡し) に出ることを鑑みると、現社地付近を往古の鎮座地と比定しても大過ないでしょう。 御巫清直は『二宮管社沿革考』において「古来不変の社地ニシテ異論アルコトナシ」と明言しています。
鎌倉後期の成立とされる 『倭姫命世記』によると、倭姫命が皇大神を奉じて相鹿瀬より宮川に沿って遡ったところ、砂も流れる速瀬があり、渡河難渋であった時、真奈胡の神の案内で渡ることができたので、その縁によって当社を創祀したとします。 延暦二十三年(八〇四)に撰述された 『皇太神宮儀式帳』では、当社の祭神を「麻奈胡神」と記し、創祀を倭姫命の時代としていることを考え合わせると、世記の伝承は、少なくとも平安草創期には確立し
ていたと推定されます。なお麻奈胡神については、『万葉集』や『出雲国風土記』『出雲国造神賀詞』『延喜祝詞
式』などの用例から「愛子」の意と考えられ、江戸後期の内宮禰宜蘭田守良は『神宮典略』において「真名子と寵愛の子をさしいへば此意の称名なり」と解釈しており、妥当な説といえます。しかしその少し前の内宮禰宜であった中川経雅は『大神宮儀式解』で、麻奈胡は小石を意味し、当社が滝原宮に近いことより、瀧原神の御子神、つまり真之子の義と解釈しましたが、守良は疑問視しており、今後の研究課題といえます。
神宮参事 音羽悟」
















