投稿日:2022年6月23日(木)
6月の異称シリーズ「焦月」(しょうげつ/せうげつ)。これから本格化を迎える暑さに対する心構えが見て取れますね…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和4年3月28日号掲載のコラム「杜に想ふ~清楚な景色~」をご紹介致します。
【杜に想ふ~清楚な景色~】
「久しぶりに料理屋に行った。麻布(東京都港区)の著名な料亭の棟続きの別館がカウンター割烹店になってゐて、そこを訪れたのだ。
といっても、飲食を楽しむためではない。NHKの某教養番組の収録に行ったのである。
テーマは、「器」。カウンターに座って料理をつまみながら、日本ならではの食器文化について語れ、といふのがディレクターH氏の指示であった。
コロナ禍のため、この種の出張仕事はことごとく中止や延期となってゐる。
久々の誘ひであった。やはり、調子がのりきらない。
もともと私は、しゃべりが得意ではない。
口調がにぶく、滑舌も悪い。そんな私が、曲がりなりにも人前で話せるやうになったのは、学生時代から師事した宮本常一先生(民俗学者。明治40年<1907>~昭和56年<1981>のおかげである。
研究会でくり返し発表することを指示され、場慣れの機会を与へられた。
そして、決められた時間を厳守することを教へられた。以来、私は、講義や講演で時間だけは五分のズレもないやう納めることを心掛けてきたはずである。
それが、ダラダラと歯切れの悪い話となったのである。
たとへば、日本の飯碗(椀)は、手の平にぴったりと納まるやうにできてゐる。これは、座敷で平膳や足の短い膳を前にしたとき、膝の位置から口元まで運ぶためである。たとへれば、それは運搬容器といふことができるだらう。また、漆器にしろ磁器にしろ碗の縁が薄手である。これは、唇に当てても障りがないためである。これを、接吻容器といふことができるだらう。ゆゑに、それをもって(飯)茶碗ともいふのだ。
その程度の説明が流暢に進まないのだ。私は、自分からNG(撮り直し)を申し出た。
そのとき、カウンター内の壁にしつらへてある神棚に目を向けた。
大きくはないが、白木の社があり、その前(両脇)に榊が立ててある。その榊は、みごとなまでに瑞々しく、青々としてゐる。
社よりも高く、隆々としてゐる。もちろん、模造ではない。それなのに、葉の一枚もしをれてゐないのである。そのようすを見て、私は、落ち着いた。
さういへば、かつての料理屋では、ほぼ例外なく客席からも見えるところに神棚がしつらへてあった。それが、このごろはみかけることが少なくなった。外に移してもあるのだらうが、しかし接客業ではそれも清楚な景色といふものであっただらう。
「毎朝、榊の青きことを確かめて柏手を打つといふ慣はしは尊いことである。
あらためて、さう思った。「そのとき、カウンターの内にゐた板さん(料理長)がそっと薄手の盃を出してくれた。その酒も、みごとなまでに上等の口触りであった。
なんとも単純な転換であったが、それからの収録は順調に進んだことである。」
(民俗学者、岡山・宇佐八幡神社宮司)