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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」奈良縣護国神社】
投稿日:2025年8月17日(日)
本日、8月17日は市内にある皇大神宮(通称 烏森神社)様の例大祭です。湯立神楽が行われるほか、各氏子町内の人形山車が神社の前に参集します。今年は日曜と重なる事もありいつも以上に賑わいそうですね……権禰宜の牧野です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年5月26日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。


全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
「大和義挙」に纏はる郷土を祀り
奈良縣護国神社宮司代務者 北森 重人
「明治維新以来大東亜戦争までの間、国難に殉じられた奈良県ゆかりの軍人・軍属・従軍看護婦、そして満蒙開拓団青少年義勇軍殉職者、県下消防団員などの御霊が祀られる当護国神社の宮司代務者を仰せつかったのは令和六年八月のことでした。
そのやうなまだ奉仕の日も浅い私が、とくに紹介したく思ひましたのが「大和義挙」に纏はる御祭神です。前宮司である故・宮田康弘氏が毎月の命日祭で奏上されてゐた祝詞で「明治維新の先駆けは大和義挙より皇御国を思ひ……」と登場するこの言葉。初めて聞いたときは、すっと理解することができませんでした。
個人にその意味を尋ねることは、もうできません。そこで、「大和義挙」に関する神社資料を探してみるとともに、その歴史について今一度調べてみることにしました。
「大和義挙」といふと馴染みが薄いですが、「天誅組」といへば分かる方も多いかもしれません。江戸末期、公武合体派と尊王攘夷派が対立してゐた文久三年(一八六三)八月十三日、孝明天皇が攘夷祈願のために大和へと行幸されることが決まります。その翌日、「天皇行幸の御先鋒」として公卿の中山忠光を主将に結成されたのが「天誅組」です。
「天誅組」は八月十七日、大和の五條代官所(現・五條市)を襲撃し、政治機関「五條御政府」を設置して、幕府による統治の排除を宣言しました。ところがその翌日、京都では尊王攘夷派の公家と長州藩兵が京都から追放される「八月十八日の政変」が起こります。これにより、孝明天皇の行幸は中止となり、「天誅組」は一日にして幕府の追討軍に追はれる立場になってしまったのです。
その後、徹底抗戦を続けますが、形勢不利な状況が続き、「天誅組」は幕府側諸藩によって鎮圧されます。「天誅組」の蜂起は、まさに「明治維新の先駆け」となる行動でしたが、およそ一カ月半といふ短い期間で、ほぼ壊滅するといふ悲運を辿ったのでした。
大切にしまはれてゐた資料のひとつに、「忠霊名簿写(明治維新から日露戦争)」と記されたものを見つけました。そのなかに「大和義挙」の文字。そのほかの資料もあはせてみていくと、「天誅組」の募兵に応じてともに戦った、勤皇精神に篤い地元・十津川郷土をお祀りしてゐることが窺へました。前宮司が「明治維新の先駆けは大和義挙より皇御国を思ひ……」と奏上した心を、垣間見ることができたやうに思ひます。
このほか、資料を探してゐた際に熊本の地域で亡くなられてゐる方々の名簿も見つかりました。恐らく、西南の役に官軍として従軍されたのでせう。
今後も残された資料を少しづつ繙き、御祭神への思ひを深めていければと思ってをります。
奈良縣護国神社
住所 奈良市古市町1984
電話 0742-61-2468
祭神 二万九千二百四十五柱
例祭 四月十五日、十月二十二日」
















