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【神社新報記事 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」鹿児島縣護國神社】
投稿日:2025年11月6日(木)
今年も残すところあと2か月。やり残しの無いようにしっかり年越しの準備を進めたいですね……権禰宜の牧野です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年8月11日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
教育者として生きた最後の陸軍大将
鹿児島縣護國神社宮司 野村 浩史

牛島満命は、明治二十年七月三十一日、父・実満と母・竹子の四男として東京で生まれた。実満は薩摩藩士の出身で陸軍中尉、母は同じく薩摩藩の武家の出であった。
父・実満は命の出生後に急逝してをり、間もなく母と子は郷里の鹿児島・加治屋町へ移り住む。西郷隆盛・大久保利通・大山巌・東郷平八郎など、郷土の偉人を輩出した地として知られてをり、薩摩の気風に満ちたこの地で育った満命は、後年「西郷隆盛の再来」と言はれる人物へと成長していく。
満命は文武ともに優秀で名門・鹿児島第一中学校へと進学する。亡き父の遺志を受け継ぎ熊本陸軍地方幼年学校へと進学して、武人としての一歩を踏み出した。
その後進学した陸軍士官学校での成績も優秀で、卒業時には恩賜の銀時計を拝受してゐる。大正七年のシベリア出兵ではシベリア派遣軍野戦交通部参謀として初陣を飾り、広大なシベリア平原での鉄道を用ゐた戦闘作戦で大いに活躍した。
大正十四年、満命は歩兵第四十五連隊附の配属将校として母校・第一鹿児島中学校へと転任。生徒との触れ合ひを大切にし、体育の時間には得意の鉄棒で自ら模範を示したり、放課後には生徒と素っ裸で相撲を取ったりしたといふ。生徒にとっては畏敬の師であり慈愛の師でもあった。
昭和三年には、歩兵第二十三連隊の教育主任に転任。同隊はとくにすぐれた舞台であり、満命の教育指導も評価されてゐた。
ある時、幹部候補生らが野球大会の祝勝会で帰営時間に遅れたことがあった。厳しい叱責を覚悟してゐた候補生たちだったが、いざ集会所に集合すると机の上にはずらりと並べられたビール。正面に座ってゐた命は、「そこのビールを飲め、そしてよく反省せよ」との一言だけを告げて帰っていったといふ。日頃から寛容な満命に候補生始隊員皆が心服してゐたといふ。
その後、満命は軍歴を重ね、日中戦争では第六師団歩兵第三十六旅団長として、郷土部隊を率ゐて勇戦した。また昭和十四年には陸軍予科士官学校長兼戸山学校長、十七年には陸軍士官学校長を歴任。”教育者牛島”としての神髄を発揮した。「放而不逸(放ちて逸せず)」—やりたいやうにやらせるが、肝心の一点は抑へる。教育者としての座右の銘であった。
昭和十九年八月八日、満命は第三十二軍司令官に親補され沖縄戦に臨む。戦局は悪化の一途を辿り、日本軍は持久戦のすゑ南部へ後退。軍司令部も敢へなく南部摩文仁の洞窟に移った。そして六月二十三日、満命は長勇参謀長とともに自決。日本軍の組織的戦闘は終結した。満命五十八歳であった。
初代陸軍大将「西郷隆盛の再来」と言はれた満命は、自決の三日前、奇しくも最後の陸軍大将となった。アメリカ軍からは「牛島将軍は物静かなきわめて有能な人で全将兵が心服してゐた」と評されてゐる。
当社の遺徳顕彰館には満命の親書「チェスト行ケ」が奉納されてゐる。薩摩の志士が戦に臨む際に戦意を鼓舞する掛け声だ。力強い筆致からは、教育者としての優しさと薩摩武人の厳しさを感じる。
鹿児島縣護國神社
住所 鹿児島市草牟田2-60-7
電話 099-226-7030
祭神 幕末明治維新から先の大戦に至るまでの本県出身の英霊、また県にゆかりのある警察官・消防士・自衛隊員の殉職者合はせて七万七千六百十四柱
例祭 春(四月十三日)、秋(十月十三日)」
















