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【神社新報記事】 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」備後護國神社
投稿日:2025年6月24日(火)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】七赤金星:令和7年7月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…西 頑固・強引に過ぎると、事を破る暗示があるから、何事も控えめに。忍耐・柔和で乗り切って。何でも出来るからと得意になって、我を張ると後の悔いとなる。出過ぎないように」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年4月14日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
あともう少し、生き永らへたら
備後護國神社宮司 江種 克二

「昭和十六年十二月、日本軍は真珠湾に奇襲攻撃をかけ、対米戦の戦端が開かれた。
佐藤忠士命は明治四十一年、現在の福山市奈良津町で誕生した。昭和十一年結婚。息子二人にも恵まれ母、妻と平穏な五人暮らしの農業者だった。
昭和十九年七月、いはゆる「赤紙」が舞ひ込み応召。慌ただしく福山駅を発った。
「比島方面部隊略歴」(防衛省防衛研究所)によれば、忠士命」所属の野戦高射砲第八十四大隊は、西部防空集団にて編成。昭和十九年門司港を出発し、フィリピン「マニラ」に上陸した。
昭和二十年一月には、クラークフィールドにおける四飛行場の直接掩護に任じられた。その後、地上戦闘に参加するも昭和二十年三月には後退の已むなきに至り、小銃戦闘及び兵器弾薬糧秣の輸送を担ふ。五月には遊撃作戦に転じた。終戦は、敵機による「ビラ」で知ったといふ。忠士命の属した同大隊江口支隊は四千五百人もの人員で編成されてゐたが、終戦時の生存者は八百人。その後、カランバン収容所に収監されてゐたこともあってか、生還できたのは六百人となってゐる。
しかし、忠士命が亡くなったのは終戦よりも前。昭和二十年六月二十二日に戦病死されてゐる。『戦史叢書』(防衛庁防衛研修所戦史室・著)六十巻には支隊の様子が詳細に書かれてゐるが、三月下旬には「時に降雨が多くなり、雨期の到来を思わせるものあり、病人が続出しつつあった」とあるので、マラリアか、はたまた栄養失調か……今となっては分からないが、「あと数カ月持ちこたへてゐれば」と思ふと切なくなる。
かうして一家は大黒柱を戦争で失ふ。加へて福山空襲により佐藤家は建物・家財一切が焼けてしまってゐた。残された忠士命の妻は昼夜の別なく働き続け、家族を守ったといふ。
「弱音は吐けないが、やり場のない憤り、埋めやうのない寂しさ辛さ怒り」があったと話すのは、昭和十六年に命の長男として誕生した暢家さん。母(命の妻)の働く後ろ姿を見るにつけ、そのやうな気持ちが湧いたさうだ。
「戦歿者遺族といふ身の上を常に意識せざるを得ない人生」であったといふ暢家さん。「母親を助けたい、楽をさせたい」と思って前に進むも、遺児であるがゆゑ進学・就職・結婚などで理不尽な理由による偏見・差別に遭った。「救はれたのは遺児仲間の絆の温かみだった」さう。さまざまな想ひを抱へつつも生き抜いてきた。
国民の九割が戦後生まれといふ時代。平和と繁栄を当然のやうに享受する人に向けて暢家さんは、今といふ時間の大切さを説く。「先の大戦で三百十万余の尊い生命が犠牲となり、残された人が懸命に努力を重ねた上に立った奇跡だといふことを忘れてはならない」と。
御祭神が身を持ってお示しくださった数々の事績を教訓として、私たちが伝承してまゐりたい。
備後護國神社
住所 広島県福山市丸之内1-9-2
電話 084-922-1180
祭神 三万千四百五十柱(自衛官合祀無)
例祭 5月19日・10月23日」

















