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【神社新報記事】 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」栃木縣護國神社
投稿日:2025年6月25日(水)
今日は梅雨らしい一日となりそうです。水があふれて御祓川のメダカ達がどこかへ行ってしまわないように注意しています。権禰宜の本山です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年5月5日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
戦歿地の村人と遺族の温かな交流
栃木縣護國神社宮司 稲 寿久

「竹澤喜作命は明治四十四年一月二十六日、父・竹沢作次郎、母・ハルの三男として誕生されました。幼少の頃より朝早くから水汲みや火起こし等、母の仕事の手伝ひをするなどたいへん親孝行な性格であったといひます。
命は長じてから家業の農業を継ぐとともに地元の板荷村役場へ奉職します。一旦兵役により衛生兵として中国大陸に出征しましたが、帰還後再び役場の仕事に戻り、昭和十五年に瀬端アサと結婚。翌年には長女・キヨ江さんを授かりました。当時の板荷村は無医村であったことから、命は役場勤めの傍ら地域の病人の面倒をみるなど、地域社会のために尽くされてゐたといひます。
日米開戦直前の昭和十六年、命は再度の召集を受け宇都宮で編成された第五十一師団(基兵団)の第一野戦病院に配属されます。同部隊は中国南部からビスマーク諸島のラバウルを経て東部ニューギニアの戦ひに投入されました。
昭和十八年にホーランジャ(現・インドネシア領ジャヤプラ)を経てウエワクに送られ、五十一師団の第六十六連隊に配属となり、凄惨なニューギニア戦を生き抜かれてをられましたが、終戦直前の戦闘で受傷。二十年十月七日にウリモ草原のモロネ村に設けられた第四野戦病院の患者療養所で戦歿されました。
平成十二年、当神社では千葉・群馬の護國神社と共同で海外慰霊巡拝を開始しました。喜作命の遺児、キヨ江さんは平成十七年から令和六年に至るまで、夫の一重氏とともに東部ニューギニアの慰霊巡拝に計十六回参加してゐます。奇蹟的ともいへる縁により、喜作命が亡くなられた現場を発見することが叶ったからです。
御夫妻が初参加された平成十七年の巡拝では、隣の村まで辿り着くことができたものの、モロネ村までは行き着くことができませんでした。そこで翌年以降、再度巡拝に参加。添乗員や随行の神職が現地情報を集めた結果、なんとかモロネ村まで辿り着くことができたのです。
戦時中を知る村の長老方に患者療養所のことを聞くと、彼らは当時そこにゐた日本兵の姓を幾つか覚えてゐました。そして長老のひとりが、竹澤御夫妻のバックのタグに書いてある「TAKEZAWA」の文字をみて、療養所にその名前の患者がゐたことを話してくれたのです。
かくして村人の案内のもと、村の中心より約四十分離れた患者療養所跡まで山道を辿り、父君の亡くなられたその場で慰霊祭を斎行できました。慰霊巡拝で御遺族が御英霊の亡くなられた現場まで行けることはほとんどないことから、これは奇蹟的なことであるといへませう。
村人たちの温かい心根により父君の戦歿地での慰霊を果たされた竹澤御夫妻は、それ以後毎年、モロネ村での慰霊の誠を捧げ、村人たちと交流をされました。また、たくさんのおみやげを村に持参するとともに、村の子供たちが通ふ近隣のトゥモロー小学校に文房具、スポーツ遊具、壁掛け時計等の学用品をプレゼント。それは、亡き父君をはじめとする日本の将兵が世話になった村の人々への感謝の念からでもありました。
かうして父君たち御英霊の結ぶ縁により、竹澤御夫妻は令和六年に至るまで、ささやかながら日本とパプアニューギニア、そしてモロネ村との交流活動を続けてこられたのです。
栃木縣護國神社
住所 栃木県宇都宮市陽西町1-37
電話 028-622-3180
祭神 五万五千三百六十一柱
例祭 四月二十八日」
















