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【神社新報記事】 「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~青森縣護國神社
投稿日:2025年8月5日(火)
【暦で見る九星の運勢シリーズ】二黒土星:令和7年9月(各自の九星についてはブログ末尾の表をご参照ください)「吉方…南・北 想像以上に物事が次から次へと良く運び、大いに発展するので、今はこの運気の持続を考えてください。但し気を付けないと、雑になりやすいので、小さな事にも手を抜かず丁寧に。」とのことです…権禰宜の遠藤です。
さて、神社界唯一の業界紙であります『神社新報』令和7年5月12日号掲載の連載記事。「全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~」をご紹介致します。
全国の護国神社の宮司さん方が連載する企画で、本年令和7年に大東亜戦争終戦より80年を迎えるにあたり神社新報に継続的に連載されます。
当社が鎮座する神奈川県は、47都道府県で唯一護國神社がありません。各県護國神社にお祀りされている英霊のことについて、当ブログをご覧の皆様に少しでも知っていただく意味でも、できる限りご紹介していきたいと存じます。

全国護國神社會連載 わが社の御祭神~勲功・遺徳を次世代へ~
兄二人を亡くして継いだ神職の道
青森縣護國神社宮司 齋藤 毅

「神道政治連盟会長・神社本庁総長そして青森県神社庁長を長く務め、平成十七年に帰幽した工藤伊豆大人命は、兄二人が戦死してゐる。
工藤文吉と妻・あさは六人の子宝に恵まれた。その三男が工藤伊豆大人命である。命は、中学時代に予科練の試験に落ち、その後満洲の移民団に加はらうと思ふも、兄らが出征してゐたことから家族に反対されて断念。國學院大學附属専門部(神道部)に通った。その後、弘前の部隊に始まり、千葉の予備士官学校、宮崎の挺進部隊、さらに東京の航空部隊を経て、山口県小月飛行場において見習士官で終戦を迎へる。
下関から長い道のりをかけて高山稲荷神社へと戻り、拝殿に頭を下げて手を合はせる。そして家族との再会……喜び溢れる団欒の中、ふいに父から聞かされたのが長兄の戦死だった。次男は昭和十七年、すでに戦死してをり、その報にやりきれない思ひを抱いたといふ。
長兄の光世命は祀職を継ぐため、國學院大學神道部を昭和十五年に卒業後、間もなく徴兵され北支戦線に配属。一旦は無事に帰郷したが、十八年には再招集を受ける。大東亜戦争の激化に伴ひ、フィリピン・ルソン島の激戦で昭和二十年六月十日に戦死した。
次兄の敏行命は、海軍に志願して横須賀海軍基地へ。戦艦「比叡」に乗船し、ガダルカナル島に向かった。しかし第三次ソロモン海戦で魚雷を受けて「比叡」は沈没。昭和十七年十一月十二日に戦死した。
伊豆大人命の著書『神々と生きる道』の序章には、かう記されてゐる。「私にとっての戦後は、この復員の日に始まった。私は、兄二人が戦死しなければ継ぐことなどありえなかった高山稲荷神社宮司という職を継ぎ、同時に、年老いた祖父母、息子二人を亡くして憔悴しきった父母を支えて生きていくことになった。満二十三歳の私にとって、その道のりは途方もなく険しいように思えた」。当時の苦心が滲み出てゐる。
読み進めていくと、「私を見守り、必要としてくれてきたもの。それを運命と呼んでもいいだろうし、神の意志と言うこともできる」としつつも「人の命が軽く扱われた戦争の時代、私はそういうことをじっくり考えたわけではなかった」と振り返る伊豆大人命。そして、戦争が終はったのち「神に必要とされたから生き残れたのではないか」と感じるやうになったといひ、「もしも、私が神に必要とされているのだとしたら、私のなすべきことは、戦死した兄たちの代わりに、神に仕えることしか考えられなかった」と続ける。
光世命と敏行命の戦死により、「兄たちの代わりに」といふ思ひで神職としての戦後を歩み始めた伊豆大人命。かうした英霊と遺族の姿を伝へていくことも、護國神社の宮司として、また斯界の後進としての務めと感じてゐる。
青森縣護國神社
住所 弘前市大字白銀町1-3
電話 0172-32-0033
祭神 二万九千百八十四柱
例祭 四月二十八日・二十九日」

















